燧ヶ岳 〜秋澄む峰に遊ぶ幸せ(前編)〜


 

 (前編)

【福島県 檜枝岐村 平成24年9月15日(土)】
 
 尾瀬沼湖畔で迎えた朝。まだ明け切らず窓の外は薄暗いですが、6時からの朝食のために準備を始めます。空気はぐっと冷え込んで、着替えながらぶるっとするほど。布団の中でまどろんでいるときに、なんか雨だれの音がしていたような気がしていましたが、起きてみると軒下だけが濡れていました。どうやら屋根に付いた朝露が軒先から垂れたいたようです。冷え込むはずです。
 昨日は沼山峠から大江湿原までを散策して、ここ尾瀬沼ヒュッテに宿泊しました(昨日の様子はこちら)。今日はいよいよ燧ヶ岳登山です。湖畔からの標高差は約680m。スカイツリーのてっぺんまで登って、さらにそこから50m登る感じです(分かりにくい。)。

 

 朝食を終え、チェックアウトを済ませて、宿の前のウッドデッキに出ました。ベンチに腰掛けて靴紐を締めます。正面にこれから登る燧ヶ岳がどどーんと。ここからだと燧ヶ岳の5つのピークすべてを望むことができます。「今日はよろしく」と心の中で挨拶をしておきました。

 尾瀬エリア
 Kashmir 3D
〔今回のルートを大きな地図で〕

 今日は、ここ尾瀬沼東岸をスタートしてまずは沼尻方面へ向かって歩きます。浅湖湿原の手前の分岐を右に折れて長英新道に入ると、あとは山頂に向けてひたすら登り。長英新道は尾瀬の自然保護の祖、平野長蔵氏とその息子長英氏が親子2代で切り開いた道だそうです。ツインピークスの一つ、俎ー(まないたぐら)に到着したらもう一つのピークの柴安ーへ。こちらが最高峰です。再び俎ーに戻って、今度は昨日ドリーム号を停めておいた御池に向かって下山していきます。ガイドブックでは6時間くらいのコースですが、yamanekoの足だと9時間くらいは考えておいた方がよさそうです。

 午前7時、尾瀬沼ヒュッテを発って登山スタートです。大江湿原越しに仰ぎ見る燧ヶ岳。歩き始めてすぐにこの風景ですからペースが上がらないのも無理はありません。ずっと身を置いていたいような空間です。

 オオバセンキュウ

 木道脇の植物はしっとりと露に濡れているのでスパッツは欠かせません。これはオオバセンキュウ。朝日を受けて光っています。

 大江湿原

 昨日来た道を200mほど戻り、この先にある分岐を左に折れます。尾瀬沼西岸の沼尻やその先の尾瀬ヶ原の方に向かう道です。分岐をまっすぐに行くと大江湿原をさかのぼり沼山峠に至ります。

 ハンゴンソウ

 左折後、しばらく行くといったん森の中に入ります。その入口に咲いていたハンゴンソウ。見上げるほどの大きさでした。

 長英新道分岐

 7時20分、長英新道の分岐に到着しました。この分岐を右に折れて森の中へ入っていきます。ここまではほぼ平坦な道のりだったので、妻も余裕の表情です。分岐の先で朝食をとっているグループが。どうやら今朝、沼山峠を越えてきたようです。ここまでで既に一仕事終えたといったところでしょう。この時期、御池から沼山峠入口までのシャトルバスは朝5時台から運行しているのでそれも可能なのですが、なかなかの剛の者といえます。

 ツルリンドウ

 お馴染みのツルリンドウ。葉も花も生き生きとしています。季節的には先駆けの部類でしょう。

 尾瀬沼側から燧ヶ岳に登るルートは、長英新道の他に「ナデッ窪」を直登するルートがあり、距離としてはそちらが短いのですが、当然のごとく急傾斜です。長英新道は大きく回り込むようなルートになっているので、はじめの方は緩やかな上りになっているのです。ガイドブックにはぬかるみが多いとありましたが、それほどでもありませんでした。数日前には雨が降ったはずですが。

 クサイロアカネタケ

 木漏れ日の中を快調に登っていきます。すると、薄暗い林床で自己主張していたキノコがありました。ワイン色のきれいな姿をしていて、醤油を垂らして焼いたら美味そうです(今考えると、どうも焼イカを想像したようです。)。帰ってから調べてみたらクサイロアカネタケというキノコのようでした。やっぱり食べられるそうです。

 ツタウルシ

 木の幹に絡みついているツタウルシ。もう紅葉が始まっています。ウルシの中でも強烈な部類ですが、何故かyamanekoには耐性があるみたいなんですよね。

 少しずつ傾斜がきつくなってきました。しだいに息が荒くなってきます。今日は熊鈴を付けていないので辺りは静かで、自分の息づかいだけが聞こえてきます。天気の良い静かな森を歩くのって大好きです。

 影絵

 ほどよく虫に喰われたムシカリの葉。それが木の幹に影絵を映しているじゃないですか。何かいいものを見つけたような気がして写真に撮ってしまいました。こういう小さなサプライズに出会えるところが野山歩きの楽しいところです。

 8時20分、これまでまったくの森の中だったのが、ところどころ頭上が開けてききました。気持ちいい青空です。

 さっきまで黒っぽい火山灰土のような地面でしたが、この辺りは軽石を含んだ黄土色の地質に変わっています。火砕流が堆積したものに似ています(yamanekoの実家の裏もこんな土です。)。
 燧ヶ岳の活動史でさかのぼることのできる最古の噴火は約35万年前だそうで、大量の火砕流を発生させ、後に燧ヶ岳を乗せることになる土台を形成したのだそうです。その一部が昨日バスの車窓から見たブナ平だそうです。標高からしてここの土はそのときのものではないと思いますが。
 当時は旧石器時代で、日本列島では人々(現在の人類の祖先ではない。)が狩猟生活を送っていた頃になります。そのころの人口が地球全体で100万人程度という説もあり、そうだとすると大陸の端っこの島で起こったこの噴火を目にした人がいたのかどうか。

 マイヅルソウ

 マイヅルソウの果実。マーブル模様の宝石か。

 ムシカリ

 このての木で葉がハート型なのはムシカリです。果実も葉もなんか輝いていますね。造花にも見えます。

 9時10分、尾瀬沼が見渡せる高さまで登ってきました。全体的に暗い写真になっているのは、尾瀬沼周辺が完全に日陰になっているから。青空なのに暗いってちょっと不思議な写真になっています。ところで、尾瀬沼のずっと奥、三角に突き出た山が見えるのが日光白根山で、あの向こうに中禅寺湖や東照宮などがあるはずです。ここ燧ヶ岳(2356m)は東北地方以北で最も高い山との称号を得ていますが、関東地方以北となるとあの日光白根山(2578m)が最も高い山ということになります。その標高差は222m。両者がこうやって見えるほど近いところにあるのがちょっと意外な感じです(実際には直線距離で18qほど離れています。)。ちなみに関東地方で東北の雄燧ヶ岳を凌駕しているのは日光白根山の周辺に数座とあとは奥秩父の甲武信ヶ岳など、数えるほどしかありません。

 巻積雲

 陽が高くなるにつれ雲が活発に動くようになってきました。様々に変化する中でこんな肋骨のような雲も。

 オヤマリンドウ

 登るにつれ傾斜は増していきます。なるべく歩幅を小さくして、息が浅くならないように意識しながら登っていきます。そして登山道脇で迎えてくれる花々にも効用が。たとえばこのオヤマリンドウ。ちょっと立ち止まって、葉を裏返してみたり、株をかき分けて根元の様子を見たり、写真を撮ったりしているうちに、荒い息が整えられたりするのです。

 オオバタケシマラン

 オオバタケシマランです。昨日、沼山峠で見かけたのはタケシマラン。大きさの他に分かりやすい違いは葉が茎を抱くか否か。オオバタケシマランの葉の付け根は襟巻きのように茎を抱き込んでいます。あと赤い果実の形が球形なのがタケシマラン。楕円形なのがオオバタケシマランです。花なら一見して違いが分かりますよ。(タケシマランの花オオバタケシマランの花

 キノコの家族

 切り株の上の生命たち。キノコの家族が並んでいます。左端の離れて発っているのは独り立ちを始めた息子でしょうか、それとも家庭でちょっと浮いている親父か。

 ヒロハユキザサ

 名前のとおり幅の広い葉をもつヒロハユキザサ。オレンジ色の果実を付けるので、この時期にはすぐにそれと分かります。普通の(?)ユキザサの果実はルビーのような深紅の色をしています。

 小休止

 9時45分、平らな広場風のところに出ました。ここは地形的に特徴があるので、地図で場所が特定できます。ここは標高2100m、小さな湿地もあります。ミノブチ岳まで標高にしてあと100mくらいのところまで登ってきたことが分かりました。
 登りはじめて初めてリュックを下ろしての休憩です。定番のアンパンをほおばり水分補給も。今日は500mlペットを8本持参しているので、ところどころで消費していかないと重くてかないません。

 10分間の休憩後、再び歩き始めました。高い木はこの辺りで姿を消し、入れ替わりに眺めが良くなってきます。さっきより高い位置からの尾瀬沼眺望も楽しめました。もう日光白根山は雲の中です。

 俎ー

 右手には俎ーが見えます。こことの標高差は200mくらい。ここからだと近所の裏山に登るくらいの感覚ですね、高さ的には。眺めはぜんぜん別物でしょうが。

 ツバメオモト

 この青い実はツバメオモトのもの。鮮やかです。果実も花以上に目立とうとしていますね。

 いい感じの風景になってきました。心地よい風が吹き渡り、なんか「きもちよかー」とか叫びたくなります。

 ミノブチ岳

 10時15分、急な階段を登り詰めると急に視界が広がりました。ここがミノブチ岳です。山頂は学校の教室ほどの広さがあり、眺望は360度です。標高は2210m、燧ヶ岳山頂部から南東方向に張り出した展望ピークです。

 山頂ピーク群

 どうです、これ。頭のふたがパカッと開いて全身を風が通り抜けるような風景です。
 真ん中の三角の峰が俎ー。この方向がほぼ真北です。俎ーの右奥にある大きな山塊が会津駒ヶ岳(2133m)。その右側にある谷が檜枝岐村の集落がある谷になります。一方、俎ーの左側にある台形の山が御池岳です。

 山頂ピーク群

 (上の写真から左にパンして)御池岳の左側にあるお椀を伏せたような山が赤ナグレ岳(西方向)。最高峰の柴安ーはちょうど御池岳の後に隠れていてここからは見えていません。尾瀬ヶ原は赤ナグレ岳の向こう遙か下方に広がっているはずです。

 尾瀬沼

 こちらは南方向(写真右端)から南東方向(写真左端)まで。尾瀬沼とそれを取り囲む山々が一望です。足下から湖の畔まで一気に下る地形を地形図で見てみると、明らかに他とは異なる様相を呈していて、何か特別な成因があることをうかがわせます。ちょうど長英新道とナデッ窪ルートとに挟まれたエリアです。
 調べてみると、この地形ができたのは、今から8千年前に山頂を含む膨大な土塊が一気に南に滑り落ち、ここに馬蹄形の窪地ができたことが始まりとされています。その窪地に赤ナグレ岳の溶岩流が流れ込んでできたのが今の地形。確かに何かを流し込んだような感じです。この初めの地滑りで俎ーと柴安ーとの双耳峰ができ、また、その崩れた土砂が沼尻川をせき止め、尾瀬沼を造ったとのことです。現在の燧ヶ岳の姿はこのころにできあがったということですね。

 俎ー

 俎ーの頂上はと見ると、おお、人影も見えますね。さあ、あそこまではあとわずか。水分補給を済ませたら早々にピークを目指して歩き出しました。
 ミノブチ岳からは御池岳の山腹を巻くようにして登っていきます。歩き始めてほどなく、左手からナデッ窪ルートが合流してきます。

 サンカヨウ

 サンカヨウが果実を付けていますね。花は白く可憐ですが、実は粉を吹いたような濃紺の色をしています。巨峰みたいで美味そう。 

 クロクモソウ

 うっ、これは? ぱっと見てシュロソウの仲間と早合点していましたが、よく見るとどうも様子が違います。そもそも花弁が5個じゃないですか。ユリ科のシュロソウは花冠の構造が3の倍数のはずです。ひょっとして…。これは長い間出会いを果たせなかったクロクモソウではないですか。こんなところで出会えるとは。遅ればせながら感動です。

 山頂近し

 俎ーの直下はこんな感じ。三点保持でいきましょう。

 御池岳

 振り返ると御池岳が。これは溶岩ドームです。このドームができたのはなんと500年前。戦国時代です。地質時代的物差しで言うとついさっきのことですね。頂上部分が凹んでいますが、その大きさは120m×70mもあるのだそうです。このドーム自体は激しい爆発などはなく穏やかにできあがったのだそうで、古文書などにも噴火の記録はまったくないとのこと。ただ、最後に内部に溜まったガスが爆発して白い粘土を噴出し、この凹みを造ったのだそうです。

 眼下にミノブチ岳

 ミノブチ岳があんなに低いところに見えます。さっきあそこからパノラマを楽しんだのですが。
 さあ、山頂まではあと少し。頑張れ。

 俎ー山頂

 11時05分、ようやく俎ーの山頂に到着しました。ふ〜、やれやれ。尾瀬沼の東岸を午前7時に発って4時間ほどかかったことになります。標高は2346m。風が強いです。柴安ーの方が10mほど高いですが、三角点はここ俎ーにあります。ここまででも十分に達成感を得られますね。 

 会津駒ヶ岳

 俎ーの山頂に立つと北側の眺望が一気に開けました。ここから奥全部が東北の山々です。広いですね−。目の前のどっしりとした山が会津駒ヶ岳。下山はこの方向に下っていきます。
 さあ、ここでの休憩はそこそこにして、主峰の柴安ーに向かいましょう。そっちで昼食の大休憩です。ここから西の方向にいったん50m下って、さらに60m登り返すと到達します。(後編に続く)