小菅村 〜松鶴のブナを守る vol.2〜


 

【山梨県 小菅村 平成19年11月18日(日)】
 
 古道再生プロジェクト「松鶴のブナを守る」の2日目です。(1日目の様子はこちら
 旅館の部屋の窓から明るい光が差し込んでいるのは目を閉じていても分かるのですが、なかなか布団から出る気になれません。同室の二人は布団を畳んで洗面にでもいっているのか、既に人の気配はないようです。朝食は7時から。まだ30分はあります。みんないったい何時から起きているのでしょうか。

 古家旅館

 朝食を終えて、荷物をまとめて、さらにゆっくりと休んでもまだ出発の8時までには間があるようです。外に出てみると空は気持ちよく晴れていて、空気がピーンと張りつめ、寒い! でもこのぶんだと日中は穏やかな小春日和になりそうです。
 この辺りは村の中心部で川池地区といい、役場や郵便局、小中学校などが集まっています。実際この古家旅館の裏手が学校でした。
 やがて出発時刻の8時になりました。マイクロバスに乗り込んで、旅館のおばあちゃんに見送られながら出発。これから昨日と同じように松姫峠に向かいます。

 松姫峠  雲取山

 峠まで来ると更に気温は低くなっていましたが、幸いにも風がなく、日向にいればけっこう快適です。みんなが指さしているのは真北の方角にある雲取山。東京都の最高峰(2017m)で、ここからだと直線距離で約14q。東京、山梨、埼玉の都県境に位置しています。
 さあ、また道具を携えて松鶴のブナのもとへ。

 ハウチワカエデ

 麓は紅葉の盛りでしたが、標高1300mに近い稜線上の木々はほとんど葉を落としています。それでもカエデの赤、カラマツの黄色など、わずかではありますが紅葉の名残を見ることはできました。

 シカの食害

 道沿いのあちこちでシカによる食害の跡が見られました。これはリョウブ。みるからに痛々しいです。ここから古道をたどっていくと、やがて大菩薩嶺、柳沢峠、三窪高原と一帯にドウダンツツジが群生しているエリアになりますが、特に三窪高原を中心としてシカの食害が酷いといいます。(源流研究所ではこの食害対策の活動もしています。) シカの食害といえば、宮島でのコバンモチの保護を思い出します。世界遺産の宮島の原始林もシカの食害に悩まされているのです(こちらです)。

 カラマツ

 カラマツが鮮やかに黄葉していました。漢字で「落葉松」と書くとおり、カラマツは針葉樹にはめずらしく晩秋に落葉するのです。

 古道からの南の展望です。冬の富士山は凛として気高い。手前の山並みは雁ガ腹摺山(写真の右端)で、五百円札に描かれていた富士山はこの山から見た姿なのだとか(そもそも五百円にお札があったことを知る人は40歳代以上でしょうか。)。この山並みの向こう側には大月の街があります。

 作業開始

 午前9時、現地に到着。今日の作業の説明の後、ストレッチで体をほぐして準備完了。柵を作るグループと木道を作るグループとに分かれてとりかかりました。

 完成予想図

 松鶴のブナは尾根道よりもちょっと南斜面側に立っています。尾根をはさんで北斜面は東京都の所有地なので、今回は一切、手をつけることができません。なぜ山梨県でありながら東京都の土地なのかというと、北斜面は多摩川の流域なので、今から約100年前に「帝都の水源を確保する」ために当時の東京府が購入したということです。現在は東京都水道水源林として、東京都奥多摩町、山梨県甲州市(旧塩山市)の一部、丹波山村、小菅村にまたがる約2万1千haを所有していて、そのうちの約7割が天然林なのだそうです。ということで、木道は尾根道上に作ることにしていますが、実際には都の土地にかからないように尾根の中心から少し南斜面側にずらして作ります。

 柵の杭打ち

 ブナの周囲をロープ柵で囲む作業は、まずは杭打ちから。昨日、杭を打ち込む場所に目印の木札を差しておいたので、作業はスムースです。直径10p、長さ1.5mのスギの杭を30本以上使い、ブナを中心に半径10mの円形になるよう打ち込んでいきます。この大きさは概ねこのブナの枝の広がりを投影した大きさで、すなわちその範囲にこのブナの根が広がっていると考えてよいのだそうです。この範囲の表土の踏み固めを防ぎ、保水力を低下させないことで、母樹としてのこのブナを守るのです。

 あらためて眺めるこのブナの存在感。
 この地に生を受けてから約250年間、厳しい環境の元で生きぬいてきた者の達観した姿のようにも感じられます。
 この木の近くにいるだけでなにか澱のようなものがスーッと浄化されていくような気がするのはなぜなのか。きっとその存在のあまりの大きさに、日常の悩みや憤りなどが相対的にごく小さなものになってしまうからなのかもしれません。
 
 ところでこの松鶴のブナ、尾根沿いに延びる登山道を通る人々にはよく知られた存在だったのですが、数年前までは特に名前はついていなかったそうです。そこでこのブナの姿に感銘を受けた文明さんが「松姫峠」の「松」と、「鶴寝山」の「鶴」をとって「松鶴(しょうかく)のブナ」と命名したのだそうです。今では様々なメディアですっかり通用する名前になっています。このブナにしても、生まれてから250年後に文明さんと出会ったことで、人生(樹生?)の転機を迎えたのではないでしょうか。これから100年生きるか200年生きるか分かりませんが、その間ずっと「松鶴のブナ」として生きることになるのですから。
 
 文明さんと多摩川源流との出会いは劇的とも言えるものだったのだそうです。この話は様々なところで紹介されていて、yamanekoもある機関誌への文明さんの寄稿を読んで、その時の様子が眼前にありありと浮かぶように感じました。本来、この話は文明さん本人から語られてこそはじめて意味を持つのだということは十分理解しているのですが、今回の松鶴のブナの保全に寄せる文明さんの思いについて触れる上で欠かすことができないと思い、あえて概略を紹介させてもらえればと思います。
 平成6年7月18日、その日文明さんは初めて多摩川源流の谷に入ったのだそうです。場所は数ある谷のうちの一つ、竜喰谷(りゅうばみだに)。谷をさかのぼりはじめてしばらく経った頃、目の前に、おそらくサワグルミかシオジか、渓畔林の大きな枯木が谷を跨ぐように横たわっていたそうです。いったいどのくらいの時間がこの枯木の上に流れたのか。朽ちたその木には青々とした苔が全体を覆っていて、ところどころから若い樹木が元気に育っていたといいます。自らの命を失ってもなお新しい生命を育む自然の悠久の節理。この光景を目の当たりにして、文明さんの体には雷に似た衝撃が走ったそうです。そして、両手を合わせて呆然として、輝くような命の前に立ち竦んでいたのだそうです。この出会いは文明さんの内にあった様々な戸惑いや躊躇を霧散させ、その後、多摩川源流の谷という谷に数百回も通い詰めるようになったということです。(実はこれからの話の方がもっと凄い。)
 ここからはyamanekoの想像ですが、7月半ばですからまだ梅雨明け前で、その日谷はむせ返るような湿気に包まれていたのではないでしょうか。沢の音と蝉時雨が辺りに反響し、他に感じるものといえば自らの荒い息づかいと、頬を流れる汗だけだったかもしれません。そんな中ふいに眼前に現れた生命のモニュメント。人を虚心にするには十分な、圧倒的な光景だったのだと思います。遥か昔から連綿と繰り返されてきた命の営みの前に、人間は遺伝子の記憶の彼方から自分も自然の一部であることを思い起こすでしょう。また、好むと好まざるとに関わらず自らも受け継いだ命を未来に繋ぐ使命を帯びていること、そしてその(生命の歴史からすれば)一瞬の生涯の中で何かをせずにはいられないことを認識するのかもしれません。だからといって、yamanekoを含む多くの人には人生を変えるまでの行動力はなかなか備わっていないのですが、文明さんにはそれがあったということでしょうか。
 ちなみに、同じ日、yamanekoは何をしていたかというと、当時埼玉県の入間市で仕事をしていて、毎日都心から2時間ちかくかけて通勤していたことに加え、その日は月曜日でもあり、おそらく朝からぐったりしていたと思います。当然、午前10時というとまだ本調子ではなかったでしょう。(当時の日記には仕事に追われている記述がありました。)

 木道の敷設

 さて、話を作業に戻して、木道の敷設作業は本格的な測量をもとに進められました。材料のスギは1本の長さが2mあって、これが結構重いのです。ここを人が通る際にぐらぐらしないように、地面の傾斜に応じて設置していきました。なにしろ参加者の中には元大工のおじいさんもおられて、昔取った杵柄とばかりに腕をふるっていました。

 根の手入れ

 大きな樹木の根は、自らの紐のような細い根が地表を這ううちに、太い根を上から縛りつけてしまうことがあるそうで、そういう細い根を切ってやって太い根の中の水の流れを阻害しないようにするのも効果的な手入れなのだそうです。

 熊棚

 松鶴のブナのすぐ脇にあるブナに熊棚が作られていました。見るとずいぶん枝先の細いところに作られています。今年は山に比較的ドングリが多いのだとか。クマも無用に里に下りることがなく、お互いにとって良いことです。それにしても、一度でいいからクマが熊棚に座って食事をしているところを見てみたいものです。遠くから。

 鶴寝山

 作業をしているところから振り返ると、すぐそこ(30mくらい)に鶴寝山の山頂が見えます。松姫峠から登ってきてこの丘のようなピークを越えると松鶴のブナにご対面です。鶴寝山の標高は1368m。峠からは100mちょっとの標高差です。

 ミズナラ  幹の裂け目から覗いてみると…

 松鶴のブナの近くに、これも結構太いミズナラが立っていました。ただ、こちらは幹の中は完全に洞になっていて、生きている組織は外側のみ。高さも地上から5mくらいを残して折れており、地面近くの幹の裂け目から覗いてみると上空の青空が見えました。すると、見るだけでは物足りなかったのか、なんと農大の学生が裂け目から潜り込んで、幹の上の穴から抜けるという離れ業をやってのけたのです。それを見たNHKのクルー(小柄な女性でしたが)も挑戦し、悪戦苦闘しながらも成功。みんな木くずだらけになって笑っていました。この洞、厳冬期にはクマが冬ごもりに使っているかもしれません。人間が入れるくらいだからクマにとっても十分な広さでしょう。

 弁当

 お昼になり、旅館が用意してくれた弁当を広げます。大きめのおむすび2つと鶏の唐揚げ、フキの佃煮、たくあんというラインナップ。きっと旅館のおばあちゃんたちが朝早くからにぎってくれたものだと思います。このシチュエーションで食べるおにぎりはどんなにか美味いか、想像できますよね。あっというまに平らげてしまいました。

 作業終了

 昼食後、作業再開。あとは仕上げを残すのみです。ブナに触れることができるように木道の支道を付けることについて、現地でも様々な意見が出されました。保護に重点を置くならば支道は付けない方がよい、近寄れるようにするといたずらで幹を傷つけられるかもしれない、という意見もあれば、このブナを見て触れてみたいと思わない人はいないだろう、むしろ触れてみて感動を得てもらった方が結果として多くの木々の保護につながるのではないか、といった意見も。結局は後者の意見で集約されましたが、yamanekoもどちらかといえばそのほうが良かったと思っています。
 
 午後1時半、すべての作業が終了。全員で柵の外側を囲み、なぜか万歳をして完成を喜び合いました。みんな喜色満面、ブナからもらったパワーで元気いっぱいです。少なくともyamanekoは昨日ここに来る前よりも確実に元気になっていました。

 松姫峠から

 午後2時、松姫峠まで下りてきました。もうかなり傾いている日差しに照らされて遠くに大菩薩の峰々が見えます。さあ、ここからふもとの「小菅の湯」に向かい、入浴後、奥多摩駅まで送ってもらいます。

 小菅の湯

 「小菅の湯」の駐車場には今日もたくさんの車が停まっていました。yamanekoはもう脱いだり着たりするのが面倒だったので入浴はしませんでしたが、その間に物産館に向かい、おばちゃんが炭火で焼いたヤマメの塩焼きと缶ビールを買って、至福のひとときを過ごしました。マイカーでないとこれができるからいいですね。
 
 4時20分、奥多摩駅発の電車はやはり満席状態でしたが、かろうじて席を確保することができました。さすがに帰り1時間半立ちっぱなしは勘弁してほしかったです。
 電車が動き出して間もなく心地よい眠りに落ちていったのはさっきの缶ビールの効能か。気がついたら電車は三鷹駅を出るところ。1時間以上寝たおかげでスッキリし、中野で乗り換えて家路につきました。


 

 今回、たまたま新聞で見かけた記事に惹かれて参加したこの企画。初めは、中村文明さんとはどんな人なんだろうという興味が半分、あとの半分は、まあ晩秋の自然観察でもできればいいやという気楽な気持ちでした。この2日間で様々なことを感じ、学びましたが、それらは決して小難しい話ではなく、ましてやストイックな使命感を強いられるものでもありませんでした。ただ素直に自然に触れ、理解し、慈しむ。そんな気持ちになれるものであったし、なによりこの2日間楽しかった。やっぱりこれが一番だったのかもしれません。
 来月、本年最後の企画があるのだとか。数日冷却期間をおいて、なお興味があるようであればこちらにも参加してみたいと思います。