日向山 〜秩父の山里で往く春を惜しむ(前編)〜


 

 (前編)

【埼玉県 横瀬町 令和6年5月4日(土)】
 
 巷はゴールデンウイークのど真ん中。野山が瑞々しく輝いています。もう初夏と言ってもいいのかもしれません。この気持ちのいい季節を逃すことなくどこか(もちろん野山)に出かけたいものです。そう思って行き先を調べていると、今回は妻の方から山に行きたいとのリクエスト。なんでも会社でウオーキングキャンペーンをやっているらしく、期間中の歩数に応じて表彰されるのだとか。変なことに本気になるタイプです。
 ということで、今回は埼玉県の秩父にある日向山(633m)に行くことにしました。西武秩父線の芦ヶ久保駅に下り立つとそのホームからも見える、比較的アプローチしやすい山です。
 
                       
 
 午前7時半過ぎに家を出て、電車で八王子に向かい、そこからはJR八高線で東飯能へ。そこで西武線に乗り換えて、芦ヶ久保駅で下車するという、約2時間の長旅。八高線は単線で対向列車の待ち合わせなどもあり、結構時間がかかるのです。ところで、東飯能駅の一つ都心寄りにあるのが飯能駅。飯能市は人口約8万人とそこそこの町なので飯能駅がターミナル的位置付けとなり、池袋駅から飯能駅までが西武池袋線、その先の飯能駅から西武秩父駅までが西武秩父線なのかと思っていましたが、実際は飯能駅から5つ先の吾野駅までが池袋線、その先が秩父線なのだそう。吾野駅は山中の長閑な駅で、なんで?と思いましたが、どうやら前身の武蔵野鉄道の終点が吾野駅だったそうで、その先は西武鉄道となってから秩父線として開業したのだそうです。だから吾野駅までが池袋線ということのようでした。
 
 冒頭、日向山を「秩父にある」と書きましたが、電車で行くと秩父盆地に出る前の横瀬町に位置しているので、これを秩父と称して良いのかという小さな疑問が生じました。一応「秩父地方」で検索すると「秩父山地に囲まれた、埼玉県西部の地方。概ね秩父市と秩父郡のうち横瀬町、皆野町、長瀞町、小鹿野町に当たる。」とありました(Wiki情報)。どうやら「秩父にある」で間違いはなさそうです。ただ、それはそれとして、すぐ隣りにある東秩父村だけは同じ秩父郡でありながら秩父地方とはされていないよう。他と同じように秩父山地の中にあり、村名に「秩父」という名まで付いているのに。そっちの方が気になりました。

 Kashmir3D

 これはどういうことだろうと更に調べてみると、どうやら川を介しての結びつきの違いによるもののようでした。秩父地方とされる4町は秩父市とともに荒川本流の上流域にありますが、東秩父村を流れる川(槻川)は秩父盆地とは反対に向かい、荒川に合流するのははるか下流の川越でのこと。昔は川は物流の幹線であり、川を通じて頻繁に往き来していたでしょうから、経済も文化も流域内で交じり合うことが多かったということでしょう。そういった意味で東秩父村は秩父郡でありながら秩父地方の構成員ではないわけですね。かくいう東秩父村も特に秩父に執着はないようで、平成には東側の市町との合併話を進めていたそうです。この話が実を結んでいれば、さっさと秩父郡とは縁を切っていたでしょうね。

 芦ヶ久保駅

 この日はゴールデンウイーク中ということもあって、東飯能駅で西武線に乗車した時点で激混み。秩父に向かう観光客や登山者でボックスシートの通路まで立つ人で埋まっていました。ただ、電車が高麗、武蔵横手、東吾野と進んで行くにつれパラパラと各駅で登山者が降りていき、ほどなくyamanekoたちも座ることができました。そして9時35分、芦ヶ久保駅に到着しました。この駅でも結構な人が下車していきました。

 ホームから

 ホームからの風景がこちら。正面左奥の小さなピークが今日登る日向山です。ちなみに右手の高い山は丸山(960m)。ここ芦ヶ久保駅で下車した登山者の多くはこの2つのどちらか又は両方に登るのだと思います。

 駅前広場

 改札を出て駅前へ。なんだか不自然に広いです。車もほとんど停まっていないし。前の建物は無料休憩所のよう。まだ新しそうでなんとなくカフェっぽくもありました。軒下でツバメが子育てをしていました。初夏ですね。



 その休憩所の前で振り返ったのがこの写真。左が駅舎、右の三角屋根が公衆トイレです。駅は山の斜面に作られていて、谷を通る国道からは10数m高い位置にあります。

 Kashmir3D

 あらためて今日のコースを。まず、芦ケ久保駅から国道に下り、川を渡って反対側の山肌を登っていきます。日向山の山頂は東西に長い尾根上にあり、そこを東から西へと歩いて、途中から南に向かって下っていきます。横瀬川の近くまで来たら往路と合流し。すぐに国道。そこから道の駅に寄って芦ヶ久保駅に戻ってくるというものです。

 クサノオウ

 国道に下りる斜面に群落を作っていたのがクサノオウ。茎を傷つけたときに出る黄色の汁には強い毒性があり、一方で古くから鎮痛剤としても利用されてきたのだそうです。さすがはケシの仲間だけのことはあります。

 国道299号線

 下りきって橋を渡り、国道沿いを100mほど歩きます。そして県民の森入口の標識のところを右へ。



 道を折れるとすぐに分岐が。ここは左手の坂を登っていきます。ここから日向山にかけての山腹は10数軒の果樹農園が点在する地域になっていて、シーズンにはフルーツ狩りなどでそこそこ賑わうようです。yamanekoが初めて東京に引っ越して来た平成の初め頃には随分PRもしていて、当時から芦ヶ久保の観光農園の名前だけは知っていました。バブル期だった往時の賑わいは今はないでしょうが。

 田園風景

 畑と農家とビニールハウスが点在する中をのんびりと登っていきます。振り返ると武甲山が頭を覗かせていました。鳥の声が長閑です。



 立派な生垣の辻を右手へ。結構な斜度です。早くも汗ばむ感じに。

 武甲山遠望

 徐々に高度を上げていきます。武甲山も肩くらいまで見えてきました。

 ビワ

 これはビワの若葉。ビワの葉は厚く固くて、葉脈に区切られるように盛り上がって、見るからに無骨な感じがするのですが、若葉はシュっとしなやかに伸びています。その印象の真逆さにちょっとびっくりしました。



 もう木陰を選んで歩くような季節になりました。まさに「緑滴る」という表現がぴったりの木々。気持ちいいです。



 足を止めて暫し休憩です。重なる山影。深い谷。西武線が開通する昭和半ばまでは、飯能、ひいてはその先の所沢や都心方面に行くにはこの山々を越えなければならず、であれば川の流れに沿って秩父市街に出るのが普通だったのだろうと容易に想像できます。

 カキドオシ

 林の縁にカキドオシがありました。花もさることながら葉の形も可愛いです。筒状の花冠の内側に濃い紫色の斑紋があるのは、きっと虫を誘引するためでしょうね。こちらへどうぞと。

 森の中へ

 10時30分、分岐が現れました。ここからは車道を離れ森に中に入ります。



 森に入ると空気が少しひんやりとしていました。眩しい照り返しもなく歩きやすいです。なんだかホッとします。

 ギンラン

 おっと、これはギンランです。出会うと嬉しくなる花ですね。これでも開花状態。高さは15cm程度と小さく、おまけに薄暗い林床に生えるので、つい見逃してしまいがちです。



 いい感じの山道。一年の内でもごく短い新緑の季節にこんなところを歩ける幸せよ。これからもできるだけ長く健康を維持していかなければと人生も後半になって改めて思いました。

 タカトウダイ

 これはタカトウダイ。トウダイグサ(灯台草)の背の高いバージョンという意味の名前です。これとよく似たものにナツトウダイというものもあります。両者の違いはその大きさということもありますが、確実なのは花序にある腺体と呼ばれる部分の形。これが楕円形ならタカトウダイ、三日月型ならナツトウダイというわけです。確認にはルーペがあった方が良いです。

 花序をアップで

 (以下、図鑑によると)黄色の花弁のように見える部分が腺体。5個の腺体の中央部分が壺型の花序になっていて、雄花や雌花はその中にあります。花序の中から丸いものが飛び出ていますが、これは肥大した子房だそうです。ふーん、こうなると学者さんとか専門家の領域ですね。

 チゴユリ

 チゴユリの花が咲いていました。多摩丘陵ではもうそろそろ花期は終わり。初夏を迎える喜びと春が終わる名残惜しさとが交錯するこの時期です。



 Y字の分岐を右手へ。左は農村公園というところへ続いているようでした。 

 ツクバネウツギ

 ツクバネウツギが賑やかに咲いていました。花筒の内側にあるオレンジ色の網目模様が目立っています。ツクバネ(衝羽根)とは羽根突きの羽根のこと。花が落ちた後の萼片がそれに似ているからだそうです。

 農村公園

 農村公園の一角に出ました。そしてまたすぐに森の中に入っていきます。

 ホタルカズラ

 涼やかな色合いのホタルカズラ。この花の色をホタルの光に例えた名前だそうですが、ホタルの光はどっちかというと黄緑色です。



 谷を遡り、小さな沢を渡ります。

 八坂神社

 11時、古い社殿が現れました。解説板には八坂神社とありました。本社は京都の八坂神社とのことです。隣に近年になって建てられたような家屋があって、神社ゆかりのものが保管されているような感じでした(神社自体の再建は難しいということか)。ただ、そちらも無人で入れそうな気配はありませんでした。

 モクレン

 寂れた、いや歴史を感じる神社の脇に咲いていたモクレン。なんだか彼岸と此岸の境目を見ているような気になりました。



 神社からほどなく、車道に出ました。

 小休止

 トイレもあったのでここで小休止です。綺麗に管理されているトイレでした。



 車道をしばらく歩くと右手の斜面に小道が。どう見ても畑の間の作業道ですが、どうやらここが進むべき登山道のよう。分かりにくい。看板がなかったら絶対に通り過ぎていた自信があります。



 小道を登りつつ振り返るとこの風景。武甲山、結構かっこいいです。この山には一昨年の11月に登りました。珍しい過去を持つ山なので長年登ってみたいと思っていたのです(こちら)。
 それにしてもずいぶん高いところにまで民家が点在していますね。この辺りで標高は500mくらいはあります。日常の生活はなにかと大変なのでは。



 森と畑の際を歩いていきます。暑くもなく寒くもなく、ちょうどよい気候ですな。

 カマツカ

 ほどなく道は林の中に入りました。
 カマツカの花が満開です。花は清楚で可愛いですが、この木はウシコロシというずいぶん物騒な別名を持っています。牛の鼻に鼻輪を通すための穴を開ける器具としてこの木の材を使ったからと聞いたことがあります。実際に昔そういうふうにしていたのかは知りませんが、それだけ材が硬いということでしょう。鼻輪で引っ張られればそりゃあ牛も大人しくなるでしょうね。想像しただけで痛そうです。

 チゴユリ

 林床のチゴユリ。侘び寂びの佇まいがありますね。枯れそうになっているのではなく、これが通常の姿。



 ヒノキの植林地との境をぐんぐん登っていきます。そういえばスギやヒノキの花粉症の季節も完全に終わりました。やれやれです。

 シロダモ

 シロダモの幼木です。薄い褐色の葉がこの春に芽吹き展開しつつある葉で、まだビロードのような軟毛に覆われています。触るとなんとも言えない心地よい感触です。

 キンラン

 立派なキンランが立っていました。高さは50cmほど。さっき見たギンランとは異なりガッシリとした印象を受けます。基本両方とも林の中を好んで生えますが、キンランの方は林縁などより明るい場所でも見られます。

 花の構造は…

 花をアップで。今がまさに満開状態です。花をよく見てみると(写真右下の花が分かりやすい)、外側に花弁が5個あるように見えますが、うち真上のものと両サイドの斜め下向きの2個の計3個は萼片、両サイド斜め上向きの2個と中央の半筒状になっているものの計3個が花弁だそうです。その半筒状の花弁の内側に褐色の模様が見えますね。それは平面の模様ではなく線状に盛り上がっているそう。その方が虫を誘導する上で効果的なのでしょうか。



 林を抜けて車道を横断し、更に進みます。ここからは開けた場所のようです。

 山頂近し

 そこはちょっとした園地のようになっていました。日向山の山頂がもうすぐそこに見えています。時刻は11時35分。木々を見ながらゆっくり歩いてもお昼過ぎには到着しそうです。(後編に続く