谷川岳 〜「魔の山」と呼ばれる峰へ〜


 

 (後編)

【群馬県 みなかみ町、新潟県 湯沢町 平成20年8月2日(土)】
 
 真夏の谷川岳登山、後編です。(前編はこちら
 さて、熊穴沢避難小屋を過ぎて、勾配がきつくなって、それと比例するように眺望がどんどん迫力を増していきました。先ほどまでの雲もとれ、空は清々しく晴れ渡っています。でも風がないので暑いですが。これから頂上直下にある肩の小屋を目指し、次いでツインピークスを訪れるつもりです。


Kashmir 3D
 登山ルート


 谷川岳の地質を調べてみたところ、山頂部には蛇紋岩とその礫を含む堆積岩があるとのこと。この堆積岩は中生代ジュラ紀に形成されたものだそうなので、ここは遥か1億5千万年前には海(又は湖)の底だったということでしょう。もっとも当時は超大陸パンゲアが分裂し、南はゴンドワナ大陸、北はローラシア大陸に分かれた時代と考えられているので、この地層はずっとこの場所にあったのではなく、遠くから地球規模で移動してきたものと考えるのが素直です。そして今から2千万年前、日本列島の背骨に当たる中央部が隆起して海面に顔を出した頃、この場所も陸地として、さらに年月をかけ山岳としてできあがったのだと思います。谷川岳の標高の低い部分には新生代第三紀の石英閃緑岩という岩石が分布しているそうですが、これは蛇紋岩やジュラ紀の堆積岩が熱変成受けてできたものだそう。時代は日本列島の隆起の時期と一致し、当時の火山活動の目に見える証拠なのだそうです。
 そんないきさつを持った岩場の道を一歩一歩登っていきます。荒い息と汗。頂上はまだまだです。

 ノリウツギ

 強い日射しをはね返すノリウツギの白。写真で見るとペーパークラフトのようですが、近づいてよく見ると萼片(花弁のように見えますが、さにあらず。)に放射状の筋がみえます。ところで昆虫にも白い色に見えているのでしょうか。
 
 12時15分、「天神ザンゲ岩」と呼ばれる独立したドーム状の岩場までやって来ました。ちょっと休憩です。谷川岳は古くから信仰の山として修験者が入山していました。ザンゲ岩とはおそらく「懺悔岩」ということでしょうから、なにかしら修験にまつわる故事があるのでしょう。なお、この天神ザンゲ岩とは別に、西黒尾根の山頂近くにも「ザンゲ岩」というものがあり、そのスケールからもそちらの方が本家のようです。

 クルマユリ

 天神ザンゲ岩のそばに咲いていたクルマユリ。輪生する葉を車輪に例えたことによる名前です。亜高山帯の草原に多く、低地では見かけることはありません。

 山頂近し

 山頂が近づいてきたようです。とはいえ、見えているのは肩の小屋がある段の縁の部分。二つのピークは更にその向こうにあり、ここからは見えていません。本家のザンゲ岩が稜線上にちょこんと姿を現しています。この距離から見ても結構な存在感。近くまで行ってみるとすごくデカいんでしょうね。 

 ザンゲ岩

 ザンゲ岩をアップで。この岩から先、西黒尾根はふもとに向けて一気に急降下していきます。

 キンコウカ

 こんなところにキンコウカを見かけました。本来好んで生える湿原ではなく山上の尾根道脇での出会いです。湿原ではしばしば大きな群落を作りますが、さすがにここでは慎ましやかに咲いていました。漢字で書くと「金光花」。確かに6つの花被片が星の輝きのようにも見えますね。

 アカモノ

 甘く赤い果実(偽果)を付けることから、「赤桃」が転訛して名が付いたアカモノ。身の丈約10p。これでも立派なツツジ科の樹木です。広島にいた頃、県北西部の吾妻山から大膳原に移る辺りにこの花の群落があったことを思い出します。印象的な情景として心に残っているのです。

 緑のうねり

 山頂付近を覆う草原。この写真では分かりにくいですが、この緑のうねりのあちこちに色鮮やかな花々が咲いているのです。ちょっとした別天地です。

 ゼンテイカ

 ゼンテイカ。別名のニッコウキスゲの方がとおりが良いでしょうか。夏の谷川岳を代表する花。「ニッコウ」の名を冠していますが、特に日光に特産するものではなく、中部地方以北に普通に見られるそうです。
 漢字で書くと「禅庭花」。禅寺の境内脇にすっと佇む姿を想像しましたが、そういう由来でしょうか。

 空中の花畑

 こんな風景を見ながら登っていくのですから、しんどさも大いに緩和されるというもの。その丘の下からハイジが手を振ってかけ上がってきそうな気がします。

 あと少し

 あと少しで肩の小屋。振り返るとこれまで歩いてきた天神尾根が一望にできます。それにしてもハラ減った。

 肩の小屋

 12時35分、ついに肩の小屋に到着。ここでは多くの登山者が休憩していました。肩の小屋まで来れば山頂はすぐそこです。とりあえず、リュックを下ろしてご飯、ご飯。いやー、いったいどれくらい汗をかいたことか。体中の水分の半分くらいは入れ替わったかもしれません。(いや、それはあり得ないか。水分は体重の60%もあるのだから。)

 道標

 肩の小屋のすぐ上には道標があります。これはここで四方に分かれる登山道を示す道しるべ。山頂のモニュメントではありません。雪山でこの道標を見たら別の感慨が湧くだろうな。

 ミヤマシシウド

 弁当を食べながらこんな風景を楽しみました。コンビニ弁当もおいしさ2割アップです。目の前にはミヤマシシウド。山岳風景に似合いますね。

 ジョウシュウオニアザミ

 デザートのゼリーを食べ終わり、13時、トマノ耳に向けて出発です。帰りのゴンドラの時間(最終17時)を考えると、あまりゆっくりとしてもいられません。
 そばにいたジョウシュウオニアザミに挨拶をして腰を上げました。

 ヤマハハコ

 ヤマハハコの一つ一つの花は小さいですが、寄り集まって咲くことにより虫たちの注目度をアップさせる作戦をとっているのでしょう。おかげで人間の目にもよく目立って映ります。

 西黒尾根

 肩の小屋を発ってしばらく登り、右手を振り返ると、そこには土合に向かって落ち込んでいく(落ち込むという表現がぴったりなんです。)西黒尾根が見えました。半端ない勾配の登山道です。万里の長城のようにも見えます。

 トマノ耳(バックは笠ヶ岳)

 肩の小屋からトマノ耳まではわずか10分たらず。丘を登るとその先にピークが現れました。

 トマノ耳

 ピークへは西側から回り込んで登ります。13時10分、トマノ耳に到着。山頂は岩がゴロゴロした場所で、20人くらいでいっぱいになる広さ。南、東、北の三面は絶壁です。

 タカネコンギク

 トマノ耳でひとしきり眺望を楽しんだら、オキノ耳を目指します。トマノ耳からオキノ耳までの登山道沿いがこれまでに増してお花畑状態。登山者の中にはオキノ耳まで足を伸ばさずトマノ耳で引き返す人も多いので、その分この場所の自然へのダメージが少ないからなのかもしれません。
 その花畑の花の中の一つ、タカネコンギクはミヤマコンギクの高山型。丈の短い可愛い花でした。

 ミネウスユキソウ

 高山植物の代表選手、ミネウスユキソウ。ヨーロッパのものはエーデルワイスとして、つとに有名ですね。白い花弁のように見えるのは苞葉で、本当の花は中心にあるものです。

 オキノ耳

 オキノ耳へは、トマノ耳からいったんぐっと下って、刃の上のような尾根道を辿ります。ここは冬場は怖いだろうな。いや冬でなくても風が強かったりすると足がすくんでしまいそうです。
 あのピークの向こうが一の倉沢の絶壁です。

 トマノ耳を振り返る

 一方、さっきまでいたトマノ耳を振り返ってみると、この風景。信仰の対象となるのが理解できるような気がします。

 ハクサンフウロ

 ハクサンフウロは歩き始めから見られましたが、特に山頂付近に多かったように思います。「ハクサン」と名が付く植物は多く、ハクサンシャクナゲ、ハクサンチドリ、ハクサンハタザオ、ハクサンコザクラ、ハクサンイチゲなどなど。調べられただけでも30種近くあります。それだけ白山は植物にとって特別な山なのでしょう。

 ハクサンシャジン

 こちらも白山を名に冠した植物、ハクサンシャジンです。花冠の印象がミヤマシャジンよりふっくらとしているように思えます。こんな可愛い花が厳しい自然環境に耐えて生きているんですね。感心しきりです。

 花の斜面

 トマノ耳とオキノ耳の間の谷、マチガ沢に向かって落ち込む斜面。そこはまさに花畑でした。見ていると吸い込まれそうで、危険です。

 オキノ耳

 13時45分、ようやくオキノ耳に到着しました。こちらは人の数がトマノ耳よりぐっと少ないです。標高は1977m。トマノ耳より14mほど高いことになります。
 いやー、とうとうやって来ました。谷川岳の山頂です。

 笠ヶ岳

 オキノ耳からの東の眺望です。
 正面にどっしりとした笠ヶ岳。その左奥には朝日岳。この山塊の向こう側には関東の水瓶である矢木沢ダムがあります。そしてその更に奥には尾瀬ヶ原。累々とした山の連なりです。

 ミヤマウツボグサ(おそらく)

 さあ、今度は来た道を引き返します。
 ミヤマウツボグサは低地で見かけるウツボグサの高山型。花期が終わった後にランナー(走出枝)を出さないのが特徴とのこと。今はまだ確認できませんが。丈が低いのもミヤマウツボグサの特徴です。

 タカネアオヤギソウ

 タカネアオヤギソウもアオヤギソウの高山型。登山道では地味な部類に属しますが、よく見るとどうして存在感は他の花に負けていません。
 あぁ、もう今日は花三昧。本当に嬉しいです。

 肩の小屋へ

 トマノ耳を通り過ぎ、肩の小屋まで下りてきました。このまま下山してしまうのはもったいないので、この山小屋で小休止です。

 オジカ沢ノ頭(左は俎嵒)

 肩の小屋には小さいながらも売店があり、飲み物を補給することができました。下界の3倍程度の値段ですが、それももっともだと思います。いや、もっと高くてもよいかもしれません。ありがたい限りです。
 小屋の前のベンチに座り、西の眺望を楽しみました。正面の稜線の先にはオジカ沢の頭(1890m)、そこから更に稜線伝いに俎嵒(1847m)。オジカ沢の頭の奥には万太郎山(1954m)が望めます。上越国境の峰々です。

 イワアカバナ

 花弁は白いですが、葉が紅葉するからアカバナです。花の直径は1pに満たないですが、この花が一面に咲いていると、それは見事です。
 
 さあ、そろそろ下山を開始しましょうか。ゴンドラの最終は17時だったはず。とはいえ、慌てることなく下りは特に気をつけて歩かなければなりません。山での事故は下山時に多く起こるのですから。

 ヨツバシオガマ

 ヨツバシオガマは中部地方以北の高山帯に生育するシオガマギクの仲間。シダのような形の葉が4つ輪生するのが特徴です。なかなかスタイリッシュな花です。

 イワイチョウ

 見たことのない花冠と特徴のある腎臓形の葉。調べるのに少し苦労しましたが、ミツガシワ科のイワイチョウであることが分かりました(便利な時代になったものです。)。花弁の縁がフリルのように波打っていて、可憐な姿をしています。ところで、ミツガシワ科とはあまり聞き慣れませんが、もともとリンドウ科に分類されていたもの。ミツガシワ属、イワイチョウ属、アサザ属をまとめて、別の科に分類されたのだそうです。
 
 14時40分に天神ザンゲ岩、15時45分に熊穴沢避難小屋を通過しました。下りの道は膝と腰に負担がかかりますが、ここまでは左膝の古傷も痛まず順調です。

 鞍部の分岐

 16時5分、鞍部の分岐までやって来ました。往路は写真右手の小道を通ってここに至り、山頂を目指したのです。さあ、あとちょっと。

 クガイソウ

 今回の野山歩きは最後の最後まで楽しませてくれます。ここに至ってまだ花々が迎えてくれるのです。
 クガイソウは特徴的な花がよく目立ちますが、その葉にも特徴があります。輪生する6個の葉が何段にも層をなしているのです。これはこの花の名「九蓋草」の由来となった形状で、「蓋」とは高僧や貴人などに後方から差し掛ける笠のこと。つまり笠が9つ(たくさん)重なったような形状をしているということなのです。

 タマガワホトトギス

 赤紫色のホトトギスに慣れ親しんでいた者としては、初めてこのタマガワホトトギスを見たときの感動は鮮烈でした。でも、図鑑によると本州、四国、九州に普通に分布しているのですね。広島にいるときは見たことがなかったですが。ちなみにタマガワホトトギスの「玉川」は京都府井出の玉川がその名の由来なのだとか。井出の玉川はヤマブキの名所で、黄色のヤマブキに掛けて名を付けたのでしょう。ちなみに、玉川は全国に6箇所あり、「六玉川(むたまがわ)」と称されているのだとか。井出の玉川のほかは、大阪府高槻市にある三島の玉川、滋賀県草津市にある野路の玉川、和歌山県、高野山奥院付近にある高野の玉川、東京都を流れる調布の玉川(多摩川)、そして宮城県塩竈市にある野田の玉川だそうです。全国を探せば他にもありそうですがね。

 天神平駅

 16時20分、ゴンドラの天神平駅まで戻ってきました。上空はすっかり雲に覆われました。ここには涼しい風が吹いています。
 今日は素晴らしい風景とたくさんの花々に出会えて楽しい一日でした。何よりケガもなく戻って来られたことが一番。この山は今日のところは「魔の山」の表情を出さずにいてくれたのです。ありがとうです。
 
 谷川岳。2千万年もの間、隆起と浸食とを繰り返し、その結果として今の姿があります。また、そこに生きてきたさまざまな生き物も栄枯盛衰を繰り返し、遠い昔から連綿とつなげてきた命を今花咲かせているのです。そう考えたとき、あちこちで地形が変わるほどの大規模開発を行ったり、生き物を絶滅に追いやったり、そんなことを人間の手で易々とやってしまっていることの、なんつーか罪深さというか、恐れ多さのような、「ここまでやっていいのか?」的な感覚が心をよぎるのでした。下りのゴンドラの中で。(そういいつつ、帰りにも巨大インフラの高速道路を使っている欺瞞。)