谷川岳 〜「魔の山」と呼ばれる峰へ〜


 

 (前編)

【群馬県 みなかみ町、新潟県 湯沢町 平成20年8月2日(土)】
 
 「魔の山」 − 標高2000mに満たない谷川岳がそう呼ばれるのは、その群を抜いた遭難者の多さによるとされています。資料によると、統計を取り始めた昭和6年から数えて780人を超える登山者が遭難死しているとのこと。世界中をみてもこれほどの犠牲者を出している山は他にないそうです。(ちなみにエベレストでの遭難死は178人だそうです。)
 この山はなぜこれほど多くの命を奪ってやまないのか。それは険しい岩壁と複雑な地形、それに変化の激しい天候が相まって、しばしば人間を寄せ付けない冷酷な姿に豹変するから。そうなるとその前では人間の英知は無力に等しいということなのでしょう。特に一の倉沢の岩壁は絶望的ともいえるほどに峻厳で、風雪の中、頂きを雲に隠したその姿は禍々しくもあります。にもかかわらず多くのクライマーがここに挑んでいきます。まるで何かに魅入られたかのように。それが魔の山と呼ばれる所以なのかもしれません。
 
 そんな厳しい表情を持つ谷川岳ですが、南側の天神平から天神尾根沿いに登るルートは中級者向けで、季節と天候さえ良ければ気持ちの良い山歩きを楽しむことができます。特に夏山シーズンは多くの登山客で賑わっています。
 仕事はいよいよ忙しさを増し、文字どおり心を亡くしそうになってきたので、ここはひとつ前から登りたかった谷川岳で心身ともにリフレッシュしてこようと思います。夏の山を彩る植物にもたくさん会えるでしょう。もちろんこのルートでも天候しだいでは危険と隣り合わせであることは心しておかなければなりませんし、事前の準備はしっかりと整えて臨む必要があります。
 
                       
 
 午前5時半、ドリーム号とともに出発。新目白通りを北上し、練馬から関越道へ。夏休み中ということもあって、車の量は多めのようです。
 埼玉県と群馬県を縦断し、水上ICで一般道へ。この辺りは利根川の源流部で、両側に山が迫り、刻まれた谷も深いです。JR上越線の土合駅(鉄道好きでこの駅を知らない人はいないのでは。)の先に、谷川岳ロープウェイの乗り場があります。山の斜面を利用して建てられた6階建てのビル型駐車場で、その最上階から乗り場へと続く通路が延びていました。このロープウエイの先の天神平は有名なスキー場で、ここは関東一円からやってくるスキー客の駐車場としても活躍しているのです。

 谷川岳ロープウェイ
 土合駅

 8時50分、ロープウエイ乗り場に到着。すでに多くの登山客が天神平へ向かったようです。yamanekoも次々にやってくるゴンドラの一つに乗り込み、標高750mから一気に1321mの天神平を目指しました。所要時間は約10分。あっという間の空間異動です。

 天神平からの谷川岳

 9時10分、天神平駅に到着。下界とは明らかに違う気温。清々しい高原の空気を胸一杯に吸い込むと、ここで一日ゆっくり過ごすのもいいかなんて思ったりもします。でも、遠く遥か上空からこちらを見下ろしている双耳峰を眼前に臨むと、これから行くから待っていてくれよと気持ちがはやってくるのも確かなのです。

 谷川岳山頂

 この双耳峰はもともと「二つ耳」と呼ばれていて、この西にある俎嵒(まないたぐら)を谷川岳と呼んでいたのだそうです。これがいつからかは知りませんが地図表記の誤りによりこの双耳峰を谷川岳と呼ぶようになったのだそうです。
 写真左のピークは「トマノ耳」(「手前の耳」が訛ったもの)、右のピークは「オキノ耳」(「奥の耳」が訛ったもの)と呼ばれています。標高はトマノ耳が1963m、オキノ耳が1977mです。

 リフトで天神峠へ

 山頂へは、ここ天神平から歩き出すルートもありますが、それは帰りに通るとして、往きはここからリフトで1490mの尾根まで上がります。そこから谷川岳までの尾根筋は「天神尾根」と呼ばれ、谷川岳登山の表通りのようなものです。
 リフトの両脇には花がいっぱい咲いていて、早くもテンションが上がってきました。ざっと見渡しただけで、ヨツバヒヨドリ、トリアシショウマ、クガイソウ、ヤマアジサイなどなど。シモツケソウのピンクも一段と濃いようです。そして約7分後、標高差170mをあっという間に稼いで天神尾根に到着しました。時計は9時30分を指しています。天神平では散策目的で訪れた人もいてカジュアルな服装の人も見かけましたが、さすがに天神尾根の上には登山装備をした人ばかり。みな準備運動をしたり靴の紐を結びなおしたりしています。


Kashmir 3D
 登山ルート


 今日のルートは、まず天神尾根の最も低い鞍部(天神平からのルートの合流点)に向けて下っていき、そこから山頂を目指してひたすら登っていきます。鞍部の標高は1400mです。足場は決して良くはなく、鎖場や両手を使って岩場を登るようなところもあります。またヤセ尾根のような場所もあって、それなりに緊張感があるのです。

 リフト終点から

 さあ、当方も靴の紐を結び直して出発です。正面には目的地の谷川岳。その手前にはこれから歩く尾根が続いています。次々に湧いては消える白い雲が山頂付近にまとわりついていて、そのせいか山頂はここからだと遥か遠くにあるように見えます。本当に行って帰ってこれるのか(やや不安)。

 ミヤマシャジン

 歩き始めは岩場の尾根道。低木と草本のみで視界を遮るものはありません。
 さっそく目についたのは、薄紫色の花冠をモビールのようにぶら下げたミヤマシャジン。涼しそうな花です。

 クロヅル

 ツル性で辺りを覆っていくクロヅル。この姿からニシキギ科ときいてもピンときませんが、花をよく見て切るとマユミなどに似た雰囲気があります。ただし、こちらは5弁ですが。

 シモツケソウ

 鮮やかなピンクのシモツケソウ。さっきリフトの脇で存在をアピールしていた花です。
 短い夏を謳歌するように、そして短いからこそ美しく咲くのかもしれません。

 ヨツバヒヨドリ

 ヨツバヒヨドリの葉は輪生します。花は全体としてもっさりしていますが、これは細長い筒状の花がたくさん寄り集まったもの。髭のように飛び出しているのは雌しべの花柱の先端部分で、先は2つに分枝しています。

 イワオトギリ

 次なるはオトギリソウの高山型であるイワオトギリ。葉を陽にかざすと明点や黒点が透けて見えます。ちょうど盛りの頃ですね。
 歩き出しても花が両側にいっぱいあるので、なかなか進みません。早くも10時が近づいてきているというのに。

 ヤマブキショウマ

 葉がヤマブキのそれに似ることから名が付いたヤマブキショウマです。「ショウマ」と名の付く植物はたくさんあって、有名なところではキンポウゲ科のサラシナショウマやユキノシタ科のトリアシショウマなど。このヤマブキショウマはバラ科です。そもそもショウマは漢字では「升麻」と書き、解熱、解毒、抗炎作用のある漢方薬のこと。基本的にはサラシナショウマの根茎を乾かしたもののことだそうです。

 ジョウシュウキオン

 ジョウシュウキオン。キオンの上越地方特産種だそうです。キオンの葉には鋸歯があるのに対して、葉の縁が全縁で葉裏が濃い紫色になるのが特徴。
 草原(といってもすぐに深い谷に向かって落ち込んでいるのですが)の上にはたくさんのトンボ。ということはそのトンボたちの餌になる小さな虫がたくさん生息していて、トンボにとって暮らしやすい環境であるということですね。

 ノギラン

 野山でよく見かけるノギラン。アップで見ると、彩りといい形といいなんとも上品な姿をしているじゃないですか。

 もう少しで鞍部

 どんどん下って鞍部を目指します。周囲にはミズナラなどの灌木が茂ってきました。
 
 10時10分、鞍部に到着。ここから登り返します。上空は薄い雲に覆われて日射しは軟らかいのですが、なにしろ風がないので暑い。汗が噴き出すようです。目の前には圧倒的な迫力で迫ってくる谷川岳。本当にあれを登るのかという感じです。

 アリドオシラン

 林縁の葉陰に初めてお目にかかるランと出会いました。アリドオシランです。高さは約5p、花は1pたらずです(手前の丸い葉は別のもの。)。登山道はゴツゴツした岩で、しかも浮き石も多く、どうしても足下ばかりを見て歩きがちですが、ふとしたタイミングでこんな小さな花と目があってしまうのです。このような出会いはもはや一つの運命といえるのでは。(大げさでなく。)
 この花の名は、葉や茎がアリドオシと似ているということで付いたもの。でも、それだけでなく、生育環境も似ているのではないでしょうか。なにしろすぐ近くにツルアリドオシもいましたから。

 こちらはツルアリドオシ

 アリドオシランの近くにはツルアリドオシも。こちらは花冠の直径が2pくらいはあって、暗い林縁ではよく目立っていました。

 モウセンゴケ

 モウセンゴケは花冠の大きさが8oくらいなのに花茎が20pほどもあって、とても全体像を捉えるのは困難です。なので花と葉を別々の写真で。柄杓のような葉から伸びている腺毛の粘液に虫が捕らえられると、まわりの腺毛もゆっくりと曲がって包み込むように虫を押さえ込みます。そして蛋白質分解酵素で消化するのだそうです。恐るべし。ひょっとしたら自分の受粉を手伝ってくれた虫も捕らえてしまうこともあるのでは。清楚な花に似合わず怖いお方です。

 鎖場を行く

 写真の鎖場、右手の崖は木々が茂ってはいるものの、その勾配は60度以上はありました。立って見下ろすとほぼ垂直に感じます。もちろん足を滑らせるとどこまで転がり落ちていくか分かりません。ここの鎖はものすごく頑丈で、いや頑丈すぎてズッシリと重く、持とうとするとかえってバランスを崩してしまいそうでした。
 
 10時45分、熊穴沢の避難小屋に到着。また陽が差してきました。道のりはまだ半分に達していません。でもここから勾配がぐっと増してくるのです。なのでここで小休止です。

 トウキ(おそらく)

 避難小屋を発つといきなり上りがきつくなります。ときにロープを頼りにしながら、一歩一歩登っていきます。
 セリ科の植物はどれも同じに見えてしまいますが、これはおそらくトウキではないかと思います。丈の高さ、頭花の様子、2〜3回3出羽状複葉であることと、生育環境から判断しました。ただ、独特の香りがあったかどうか記憶が定かではありません。残念ながら。

 西黒尾根

 そうこうするうちにずいぶん高いところまで上がってきました。右手には西黒尾根が見えています。あの尾根上にはふもとの土合からの登山道が延びていて、ここから見るとまさに刃の上を渡るような険しい道に見えます。(実際、険しい登山道だそうです。)

 振り返ると

 振り返るとさっき小休止した熊穴沢避難小屋の茶色の屋根がチロルチョコくらいの大きさに見えています。そのずっと向こうにはスタート地点のリフト終点があるピークが。アップダウンを繰り返しながら鞍部まで下り、またアップダウンを繰り返しながら避難小屋まで上り返してきたわけで、両地点の標高はほとんど変わりません。今朝からこの尾根上を延々と歩いてきたのです。

 ツルリンドウ

 息が上がってゼェゼェいいながらも、立ち止まるたびに傍らで揺れるこんな花たちに励まされ、力をもらって、そしてまた一歩ずつ歩みを進めていくことができるのです。

 俎嵒(まないたぐら)

 11時15分、左手、西側の展望の開けた岩場に出ました。オジカ沢の切れ込みをはさんで俎嵒の全容を望むことができる素晴らしいビューポイントです。それにしても、まるでノミで削り出したようなゴツゴツとしたソリッド感。眺めていると背中がゾクゾクとしてくるようです。

 空気孔

 俎嵒の岩壁に沿って視線を下の方にずっとずっと移していくと、一番下の谷底に小さな(実際には巨大な)煙突のようなものが見えました。これは関越道の関越トンネルの空気孔。実際のトンネルの位置より東側にずれたところから突き出しているようです(新潟県側にも1箇所あり。)。この空気孔では強制排気を行っていて、ここから排出される窒素酸化物が降雪や降雨を介して谷川岳周辺の環境に影響を及ぼしているという調査結果もあるそうです。関越道が開通したことによるさまざまな利便や経済効果を考えると、ここは触媒技術を高めてもらうしかないようですね。
 
 さあこれから山頂に向けてさらに高度を上げていきます。いったいどんな眺望が迎えてくれるでしょうか。《後編へ続く