高塚山 〜南房総春の海(前編)〜


 

 (前編)

【千葉県 南房総市 令和2年2月9日(日)】
 
 暦の上では立春を過ぎ数日経ったところですが、現実世界は今まさに寒さの底です。特に今日は風が強く、雲ひとつない晴天とはいえ厳しい冷え込み。北風と太陽がせめぎ合って北風の優勢勝ちといった感じです。
 こんな日は少しでも暖かいところで野山歩きをしたいもの。そう考えるとこの時期に暖かいといえば南房総でしょう。この地域は沖を流れる黒潮の影響で冬でも暖かいことで有名ですから。特に沿岸部では1月のうちから観光花摘みで賑わっているところです。
 ということで、目的地は南房総市(旧千倉町)にある高塚山(216m)に決定。太平洋を眼前に眺める山で、山頂からは黒潮の流れを見ることができるかもしれません。
 
                       
 
 房総方面に向かう際、これまでは市川、習志野経由の陸路を行くか、川崎から東京湾アクアラインを通って行っていましたが、今回は三浦半島の久里浜から対岸の金谷までを結ぶ東京湾フェリーを使うことにしました。早春の潮風を感じるのも悪くないでしょう。それと、このルートで向かうのは初めてですが、調べてみると我が家からはこちらの方が走行距離も短くトータル料金も若干安いようでした。知らなかった。ただ、運行ダイヤを気にしなければならないという面はありますが。

 久里浜港

 保土ヶ谷バイパスから横浜横須賀道路を走って出港の30分前に久里浜港のフェリーターミナルに到着。乗船車両専用の駐車レーンにドリーム号を停めてチケットを買いに行きました。
 ターミナルビルに入ってそのチケット売り場に向かうと、なんとなく既視感が。広島在住の頃はときどき瀬戸内海のフェリーに乗っていましたが、その記憶が残っていたのだと思います。
 乗船後、車両甲板に車を置いて上階の船室で出港を待ちました。乗船時間は約40分とのことです。この日は1時間に1本のペースで運行していました。yamanekoが乗船する9時25分発の便はざっと50台ほどが乗り込んだようでした。

 出航

 出航後、後部甲板に出ると富士山が大きく綺麗に見えました。強風によろめきながらも写真を撮る人がたくさん。外国の人も喜んでいるようでした。
 
 金谷港には定刻の10時過ぎに到着。ここから富津館山道路を終点の富浦ICまで走り、そこから国道128号線などを通って外房側に出ます。

 道の駅 ちくら潮風王国

 で、11時10分、今回の野山歩きのベースとなる道の駅「ちくら潮風王国」に到着しました。海に面したこの道の駅には海産物の直売所があり、たくさんの人が訪れていました。広い駐車場もあらかた埋まっていました。yamanekoはここでくじらメンチカツを購入。今日の昼食のおかずです。



 道の駅から山側を振り返ると、道路を挟んでずらっと露店が。露店といっても常設のもので、花摘み農園の店舗でした。
 その背後に並ぶ山が今日の目的地。屏風のように平坦地から一気に立ち上がっています。ここからは1qくらい距離があるでしょうか。目立って突出したピークはないように見えますが、その中でも最も高いところが高塚山の山頂になります。

 Kashmir 3D

 今日のルートは、道の駅から登山口のある大聖院に向かって歩き、山の縁からは一気に高度を上げます。丘陵の上面に出たら尾根伝いに高塚山の山頂へ。下山後は高皇産霊神社に立ち寄って戻ってくるというものです。この地図を見ただけでも太平洋の眺望が良いだろうということが分かりますね。

 出発

 11時30分、道の駅を出発しました。しばらく海沿いの道を歩きます。さすがは南房総、風の強さを上回る日差しの温かさを感じます。



 沖の波が光を不規則に反射して、眩しいです。もう早春の海ですね。

 高塚山

 道の駅から300mほど歩いたところで右手に折れ、山側に向かって行きます。正面の山肌が露わになっている山の右肩奥に見えるピークが高塚山の山頂です。
 房総半島は全体的に丘陵地の連なる地形です。鴨川付近の低地を挟んで北側が上総丘陵、南側が安房丘陵と呼ばれ、その安房丘陵の最高地点が高塚山になります。 丘陵は海岸に間近に迫るものの、この辺りでは海岸線までは距離があり、平坦地が広がっています。これは過去の地盤の隆起によりできた波食棚で、丘陵地の最前面も過去の海食崖なのだそうです。波が作った平坦地と壁なんですね。集落は海岸縁と国道沿い偏っていて、山際近くは農耕地としてもあまり利用されていないようでした。

 ノゲシ

 道端のノゲシ。名前にケシとありますが、ケシ(芥子)とは別物でキクの仲間。どうやら葉が似ているからということのようですが、ケシの葉はノゲシの葉ほはどトゲトゲしくはありません。早春から花を付け秋風が吹く頃まで見られます。やはり花の少ないこの時期の方が目立ちやすいですね。

 ホトケノザ

 こちらも早春の花、ホトケノザ。小さな花ですが、よく見ると色も鮮やかで、シソ科に特徴の唇弁花の形をしています。春の七種に数えられる「仏の座」は本種ではなくオニタビラコのことというのは割と知られた話。ちなみに春は「七種」、秋は「七草」と書くのだそうです。確かに「種」は「くさ」とか「ぐさ」と読むことがありますね。



 集落の中の道を歩いて行くと、「高塚不動尊」、「大聖院」の看板が。大聖院は真言宗の寺で、不動明王が本尊とのこと。山頂にある奥の院の不動尊を守る役目なのだそうです。

 グランドモナーク

 道端にスイセンが。春ですね。どこかの庭から逸出したものでしょうか。眩しいほど明るい白色をしています。これはグランドモナークという園芸種です。



 目に前に山が迫ってきました。平地から急に立ち上がり、まさに壁のようです。山肌が剥がれ落ちています。

 砂岩/シルト岩

 よく見ると地層が水平に積み上がっています。この辺りの地質について調べてみると、数百万年前に海でできた地層の集まりで、上総層群と呼ばれているそうです。これがここ南房総や東京湾を挟んだ多摩丘陵では地表に現れていますが、下総台地や武蔵野台地などでは地中に潜っていて関東平野の基盤になっているそうです。
 写真ではしましまになっているのがよく分かりますね。これは砂岩とシルト岩の互層なのだとか。シルトは粒子が砂より細かく粘土よりは粗いもので、起源は火山灰です。川から海に流れ出たこれらの粒子は粒の粗いもの(重たいもの)から先に沈殿し、細かいものほど河口から遠く離れたところで沈殿するというのが模式的考え方。ここの地層が砂岩とシルト岩が交互に積み重なっているということは、過去この場所の河口からの距離が短くなったり長くなったりしたということではないでしょうか。すなわち、海面が上昇した時期には河口が遠ざかり、海面が下降した時期には河口から近くなったということではないでしょうか。

 オオイタビ

 野辺の道を歩いて行きます。これはオオイタビ。民家の近くの法面などを覆っているのをときどき見かけ、山野で出会うことはまりないような気がします。イチジクに近い仲間です。

 マルバグミ

 シルバー光沢のあるこの実はマルバグミのもの。まだ若く、熟すともう少し膨らんで俵型になり、色も灰がかった赤色になります。

 大聖院

 スタートから20分後、大聖院までやってきました。境内には入りませんでした。(なので建物の写真なし。)

 

 墓所の脇を通り、垣根の間から隣接する空き地に出ました。民家などはなく荒地化した休耕田が広がるのみ。遠くの海の青さが救いです。

 登山口

 振り返ると登山口。あの森に入ると急勾配が待っているはずです。



 そして森の中へ。おお、やはりいきなりの急勾配です。

 カクレミノ

 カクレミノ。温暖な沿岸地に分布する植物らしく光沢のある葉を持っています。結構肉厚でもあり光を透過しないで反射するイメージですが、葉裏から見上げると陽を透かして明るく見えます。
 昔話に「天狗の隠れ蓑」というものがありますが、この葉は隠れ蓑ではなく「天狗の羽うちわ」に似ています。「羽うちわ」→「天狗」→「隠れ蓑」というふうに、どっかでねじれて命名されたのでしょうか。

 ウバメガシ

 この辺りはマテバシイの森です。葉がマテ貝に似ているからマテバシイというのだそうですが、はっきり言って似てないと思います。共通点としては細長い形ということくらいでしょうか。マテバシイの葉は他のブナ科の樹木の葉と比べてもかなり大きい部類です(テレビのリモコンを一回り大きくしたくらい。)。マテ貝は体温計くらいですよね。



 岩肌にはびっしりと苔が覆っていました。多湿な環境なんでしょうね。

 倒木

 行く手に倒木が。去年9月の台風15号の仕業でしょう。でも、通れるようにきちんと処理されていました。



 道は山肌をジグザグに穿ち、急傾斜のまま高度を稼いでいきます。体温が一気に上がり汗ばんできました。

 ドングリ

 道端に落ちていたマテバシイの実。実もドングリの中では大型な部類で、やや面長な感じです。



 坂道の写真ばかりですが、それは急な道が続いていたということで。



 まだまだ続きます。



 登山口から20分、樹林越しに高塚山の山頂が見えてきました。急な上りはこの辺りまでで、後は稜線沿いになだらかに登っていく感じです。



 こんな道を歩くのは楽しいですね。



 ここにも倒木が。ただ、ここもなんなくスルーしていけます。これは誰かがきちんと整備してくれているからでしょう。



 左手に何か石碑が現れました。正面に回り込んで見ると、奥の方のには「冨士淺間神社」と、手前のものには「富士登山記念碑 昭和四年七月廿一日」と彫られていました。これはおそらく富士講の記念碑なのだと思います。このような碑は関東各地に残っています。富士山登山は富士山信仰の行として、あるいは庶民の娯楽として江戸時代に広く行われていたものといいます。きっと当時は一大事業だったでしょうね。集落を代表して富士山に参詣登山する形が一般的だったということですから、基金を募ってのことでしょうし、そこから碑の建設費用を賄っていたのかもしれません。ちゃんと参詣してきましたという証拠にもなるわけですね。ここの記念碑にも発起人として多くの人の名前が刻まれていました。



 道はすっかり緩やかになってきました。気持ちの良い尾根道です。



 鳥居が現れました。山頂には高塚不動尊の奥の院があるはずですが、これは神仏習合の時代の名残でしょうか。ちなみに手前の石碑は伊勢琴平参拝記念碑で大正10年のものでした。さすがにこの時代ですから汽車で行ったでしょうね。

 タチツボスミレ

 早咲きのタチツボスミレを発見。やや傷んでいるのは、咲いた後に寒波がきてしまったのかもしれませんね。



 眺望の良い場所がありました。ちょうど正面に道の駅が見えています。あそこから歩いてきたんですね。
 さて、山頂まではあとわずか。この先ものんびり行きましょう。(後編に続く