大久野島 〜年の瀬を瀬戸の小島で過ごす(後編)〜


 

 (後編)

【広島県 竹原市 平成27年12月13日(日)】
 
 年の瀬の瀬戸の小島で行われた定例観察会。後編です。(前編はこちら


Kashmir 3D

 島の東側を半周し、山頂に向けて登ってきました。

 メラノキシロンアカシア

 11時半、山頂に到着しました。初めて見る樹木が(いや前回来たときにも目にしているとは思うのですが)。メラノキシロンアカシアだそうです。オーストラリア原産。この島は2度の山火事で島の植生に深刻なダメージを受けていますが、その際に植えられたものでしょうか。

 メラノキシロンアカシア

 メラノキシロンアカシアは葉に特徴があり、イヌマキのような単葉の先に羽状複葉が付くのだそう。でも、じつは単葉に見えるものは葉柄が変化したものだそうです。写真のものは葉柄しか残っていません。落葉樹なんですね。この状態で落葉しているって、なんか変な感じです。

 フサアカシア

 山頂にはフサアカシアもありました。別名ミモザ。早春にレモンイエローの花を咲かせます。こちらもオーストラリア原産だそうです。

 山頂からの西側の眺望。これぞ瀬戸内海の風景ですね。右手近くにあるのは小久野島です。

 展望台

 山頂部はピークが南北に並んで二つあり、もう一方には展望台的な施設が整備されています。前回はここで昼食にしました。でも今回はここはスルーです。

 オオバヤシャブシ

 山頂からは島の西側へ下りていきます。
 オオバヤシャブシ。久しぶりに見ました。関東ではあまり見かけないような気がしますが、あるところにはあるんでしょうね。

 山の中でも頻繁にウサギに出会います。素直に可愛いです。

 12時ちょうど、休暇村に到着しました。ここで昼食です。ウサギにたかられないよう注意しなければ。

 野点

 いつも観察会でお茶を点ててくれるHさん。今回も美味しくいただきました。ありがとうございました(感謝)。

 カナリーヤシ

 休暇村の前庭にはカナリーヤシが植栽されています。別名フェニックスです。

 モミジバフウ

 昼食後、本土側に渡るべく桟橋に移動です。
 ずいぶん奔放に延びた木があります。近寄ってみるとモミジバフウでした。街路樹として見かけるものとはずいぶん違いますが、これが本来の樹形なんですね。

 忠海へ

 観察会の一行は、12時45分発の高速艇で忠海へ向かいました。フェリーに比べると小さな船ですが、これでも定員は120人。フェリーよりも数分早く着きます。

 瀬戸の島々を船で移動するのって、なんか懐かしいなあ。それにしても穏やかな日和です。

 忠海港に着いたところでリーダーが歴史民俗研究会の新本さんに交替。ここからは港付近に残る中世以降の歴史の面影を巡ります。

 アオハタジャムデッキ

 港から西側に移動していくと、道ばたにこじゃれた建物がありました。これはジャムで有名なアオハタのジャムデッキという施設。ジャムの手作り体験や工場見学ができるのだそうです。アオハタは忠海の有力地場企業ですね。ただし、これは今回巡る歴史ポイントではありません。念のため。
 新本さんによると、江戸時代から昭和の初めまで忠海の沿岸部は塩浜(塩田)が広がっていたそうです。この辺りもその一部です。現在ではその痕跡を見つけるのも難しいですが、衰退の理由としては昭和の初めに国鉄(当時は省線)呉線が開通し、塩田のど真ん中に線路が敷設されたことが大きかったようです。

 湊明神

 往時の塩浜を思い描きながら港の脇を更に西に向かって歩いて行くと、小さな社に出会いました。湊明神というのだそうです。塩田があった当時この辺りは海岸に近く、船舶の航行の安全を祈願するものだったと思われます。石柱には文化15年(1818年)と彫られていました。

 黒滝山

 忠海の街の背後にあるのは黒滝山。白い岩が露出していますが、あれは花崗岩。瀬戸内沿岸にはこういった山が連なっています。

 住宅地の路地を歩いて行きます。おじゃまします。

 大砂川

 民家の路地を抜けると大砂川という小川に出ました。川幅は3mほど。一見、用水路のような直線の川で、市街地から真っ直ぐ海に向かっています。「大砂」の名のとおり、昔は砂が大量に堆積し、今よりも数m高い位置に河床があったとのこと。いわゆる天井川です。その大量の砂は奥に見える黒滝山などから流れてきたものだそうです。昔は製塩の際の燃料として木々は伐採され、里山はあらかたハゲ山になっていたので、土壌の侵食も激しかったとのこと。もともと侵食されやすい花崗岩質の山々なのでなおさらです。なので、ひとたび荒れると暴れ川となり、この町には長く治水に取り組んできた歴史があるのだそうです。

 更に西に歩いて行くと路地裏のような場所に標高10mほどのこんもりとした小山がありました。一行はその頂へ。

 すぐに頂上に到着しました。ここが真っ平らなのには理由があるそうです。



 中世戦国時代、この丘の上に小早川隆景(毛利元就の三男)に仕え水軍を統率した乃美宗勝が賀儀(かぎ)城という城を構えていたそうです。丘の上に登ってみると、大久野島も指呼の間。ここから沖を通る船を監視していたんでしょうね。
 この城は三原市本郷町にあった高山城(隆景の居城)の出城。いわば前線基地であって、城と言っても簡素なものだったのではないかということです。

 大久野島

 さっきまでいた大久野島が目の前に見えます。奥にある大きな島は大三島で、あそこはもう愛媛県です。

 マツグミ

 城の跡地に立っていたアカマツにマツグミが寄生していました。ヤドリギの仲間で針葉樹に寄生する植物です。実はほのかに甘く、昔は子供達が遊びの途中に食べていたりしたそうです。まだ熟してはいませんでした。

 西側を見下ろすと小さな湾を挟んで小山があり、その岩壁の下に張り付くようにして白い小さな建物(円内)がありました。あれがこれから向かう石風呂。その右手前にある建物が石風呂旅館「岩乃屋」で、これから下りて行って経営者の稲村さんから石風呂について話を聞くことになっています。

 城跡を下りると小さな入り江に。防波堤の先で親子が釣りをしていました。子どもの方は3歳くらいでしょうか。長閑です。

 さっきまでいた小山が見えます。それにしても綺麗な浜です。コンクリート堤防がなかったころは、もっと奥まで浜だったでしょうね。

 岩乃屋

 岩乃屋の前までやって来ました。石風呂へはたぶんここで受付をして奥に進むのだと思います。
 中から稲村さんが出てきてお話を伺いました。
 石風呂は瀬戸内海地域に発展した独特の入浴施設だそうで、形式としては洞窟を使ったサウナのようなもの。昭和の中頃までは広島市内にもあったそうです。忠海の石風呂は2百年以上の歴史があり、往時は町内に複数の石風呂があってずいぶん賑わったそうです。戦後廃れかけたものを稲村さんのお父さんが継承する形で営業を開始。ちょうど戦争中に軍の船(毒ガス工場周辺を監視するためのもの)を隠していた洞窟があり、そこを利用したそうです。

 稲村さん

 忠海の石風呂は海草のアマモを敷き詰めるのが特徴。そこから立ち上る蒸気が発汗を促すのだそうです。入浴方法は半袖・短パンなど着衣のままで、1回15分から20分、水分を摂りながら汗を流します。体の水分を入れ替えるような感じで。
 燃料の枝木は農家の方が山を手入れした際に出る枝を縛って束にしたもので、1日に20束くらい燃やすとのこと。熱がこもる中での作業はかなりの重労働でしょう。稲村さんはアマモの採集や乾燥も自ら行っていて、これがまた手間のかかる作業なのだとか。櫓を操りながら小舟の上から専用の棒でアマモを刈り取り、その乾燥も天候を気にしながらの作業で一週間近くかかるのだそうです。稲村さん曰く、近年アマモが少なくなってきたとのこと。治水対策が進み、山から土砂とともに流れてきていた栄養分が少なくなっているのではないかとのことでした。
 こういった話を聞いている間にも入浴客が訪れていました。やはり根強い人気があるようです。ただ、稲村さんは既に70歳台半ば。来年の秋9月1日をもって営業を終了されるそうです。一つの文化が消えていくようで寂しい気がしました。

 床浦神社

 最後に旅館の手前にある床浦神社で社叢のウバメガシの巨木を見学。ウバメガシは備長炭の原材料としてつとに有名。暖地の沿岸部に多い樹木だそうです。大久野島でもあちこちで目にしました。
 閉会は2時半。今日は小春日和の下でのんびりと瀬戸内の自然と歴史に接し、心と体がじんわりとほぐれていくような心地よい観察会となりました。そして、今回は地元で活動しておられる忠海歴史民俗研究会の協力をいただき、一層厚みが増した観察会となったようです。