武蔵野台地と野川公園
  

 武蔵野台地の成り立ち
 武蔵野台地は関東平野の南半分、荒川と多摩川とにはさまれた地域に広がっている台地です。
 奥多摩の山々を削りながら流れ下ってきた多摩川は、青梅を扇頂とした大きな扇状地を形成しました。この扇状地が武蔵野台地の基盤となっていて、その上に関東ローム層が概ね5〜15mの厚みをもって堆積しています。関東ローム層とは、主に富士山の火山灰が西風に運ばれて堆積しその後風化が加わったもので、安山岩ないし玄武岩質の砂泥土です。その生成は噴火の時期によって異なり、最も下の層で十数万年より以前、最も上の層で約1万年前と考えられています。
 武蔵野台地では2種類の発達した河岸段丘が見られます。ひとつは南側を流れる多摩川によって形成されたもので、低位面を立川面(あるいは立川段丘)、高位面を武蔵野面(あるいは武蔵野段丘)と呼びます。もうひとつは北部に見られるもので、かつての多摩川の流路の名残りと考えられているものです。 

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武蔵野台地
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 武蔵野の地形区分
 武蔵野台地(東京の山の手を含む。)は、日本の洪積台地*1の中では、下総台地、十勝平野などとともに最大級のものの一つなのだそうです。その形状はおおざっぱにみると青梅を扇頂とした旧多摩川の扇状地(等高線を描いてもきれいな同心円状にはならず、南東に大きく張り出した形になっていますが、これは武蔵野台地の北東部が関東造盆地運動*2により相対的に沈降してきたためと考えられています。)になっていて、さらに細かく見ると、新旧の段丘面の集合体となっています。これらは台地の表層の赤土(関東ローム)の重なり方によって、丘陵部分である多摩面のほか、下末吉面、武蔵野面、立川面と区分され、そしてそれらの中に分け入るように沖積面が進入しています。ちなみに、「相接する段丘では高い段丘は低い段丘より古いという原則」(地形として成形されたのが古いということで、必ずしもその地質が古いという意味ではない。)があり、武蔵野台地においてもそれは当てはまるのだそうです。

*1「洪積台地」 第四期の洪積世(現在では更新世と呼ばれている。)の時代に氾濫原や波食台が、氷河期と間氷期の交替に伴う海面の上昇や低下によって河岸段丘や海成段丘を形成し、周囲の低地よりも相対的に高い土地となったものをいいます。日本の台地は一般にこれにあたり、武蔵野台地では台地上に火山噴火物の風化物であるローム層が堆積しています。
*2「関東造盆地運動」 およそ200万年前に始まった地盤の沈降を主とする地殻変動で、現在の関東平野の重要な成因のうちの一つ。その沈降速度は1万年当たり10mという目を見はる(?)速さだそうです。初期の沈降の中心は千葉県船橋市付近でしたが、洪積世末期(数万年前)には埼玉県栗橋町付近と東京湾木更津沖に中心が二分したようで、このことは栗橋町付近での大型河川の集合(水は低きに流る)と東京湾の形成に多大な影響を与えているものと考えられています。この地殻変動により東京直下には大規模なガス田が形成され、高度経済成長期には大量に採掘されていました。
 
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武蔵野の地形面
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 下末吉面   武蔵野面 
 立川面  沖積面

 多摩面
 多摩川の南の多摩丘陵を模式地とする面で、武蔵野台地東部の狭山丘陵(いずれも上図では色を塗っていない部分)もこれにあたります。
 
 下末吉面
 神奈川県川崎市鶴見区を中心とした下末吉台地を模式地とする面で、武蔵野東部では都心を乗せる淀橋台や大田区、世田谷区などが位置する荏原台が、また、武蔵野西部では埼玉県所沢市周辺の所沢台、その更に北西に位置する金子台などがlこれにあたります。上部にローム層が一様に堆積していることからこの平坦面は関東ロームが降り積もる前に作られたことになり、それは浅い海に堆積した堆積物、つまり昔の海底であると考えられてます。(所沢台、金子台は海成のものではなく、扇状地性の砂礫層)
 
 武蔵野面
 吉祥寺付近を中心とした武蔵野中西部に広がる武蔵野段丘を模式地とする面です。北東部では本郷台、豊島台、成増台、南東部では目黒台、久が原台がこれにあたります。ここでもローム層は平坦な台地面を作った地層ではなく、この平坦さを作ったのは、さらに下部にある地層(東京層)を削った河川堆積物の堆積表面、すなわち昔の河床や氾濫原であると考えられています。
 
 立川面
 武蔵野台地の南西部に延びる立川段丘を模式地とする面。立川段丘は武蔵野段丘を浸食して作られたものと考えられていて、やはりその上に数メートルのローム層が堆積しています。南は狛江市のあたりで沖積面と高さが同じになり、ここから下流では立川段丘は多摩川の氾濫原(沖積面)の下にもぐってしまいます。
 
 沖積面
 これは台地ではなく、河川の堆積物や過去の海進期に湾入した浅い海での堆積物に覆われた面です。東京東部から千葉西部、埼玉南部にかけて沖積面が広がっていて、「下町低地」とも呼ばれています。
 

武蔵野台地の縦断面

 
 台地の上の大都会
 武蔵野台地の東部(すなわち現在の都心地域)は小さな谷が複雑に入り組んでいます。南から久が原台、荏原台、目黒台、淀橋台、本郷台、豊島台、成増台といった台地が中小河川によって武蔵野台地から削りだされています。そのため東京の街は坂が多く「中野坂上」、「志村坂下」などの地名があちこちにあります。例えば池袋は豊島台の上に、また、新宿は淀橋台の上に広がる街です。その淀橋台の南側が浸食されてできた谷底に広がっているのが渋谷の街です。皇居も淀橋台の東端の地形をうまく利用して築城されています。本郷台の東端にあるのが上野公園。上野駅の西側と東側の高低差は、まさしく武蔵野台地の崖なのです。品川は淀橋台の南端の先の低地にあり、昔は港町であったことが容易に想像できます。 

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市街地

 
 多摩川水系と荒川水系
 武蔵野台地の南縁をなぞるように多摩川が流れています。図でも分かるとおり、多摩川の支流の大部分は南の多摩丘陵から注ぎ込んでいて、武蔵野台地からはわずかに野川や仙川が注ぐのみですが、これは、多摩川の北、すなわち武蔵野台地の基盤が扇状地であって、一般に扇状地の中央部では川は地表を流れずに地下水となることが多いことによるものです。
 荒川水系に注ぐ川はいずれも荒川に対しほぼ直角に注ぎ込んでいますが、これは武蔵野台地北部が地殻変動により沈降し、扇状地の側面の傾斜が大きくなったため、流路が側方に引っ張られたためと思われます。大昔は多摩川は北東方向にも流れていたと考えられていて、現在の黒目川や柳瀬川のある谷は太古の多摩川が刻んだものと考えられています。

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武蔵野台地の河川
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 玉川上水と扇端部の川
 武蔵野台地西部では昔から水の便が良くなく、頻繁に井戸が掘られました。扇状地の扇頂部に近いほど地下水位は低く井戸が深くなるのが一般で、扇端部に近くなるほど地下水も浅くなります。江戸時代前期には武蔵野台地西部の慢性的な水不足の解消と大都市江戸への供給を目的として玉川上水が開削されました。この水路のルートは武蔵野台地における玉川水系と荒川水系との分水線をたどっていて、そうすることによって遠く江戸市中まで上水を引くことができたのです。
 武蔵野台地の地下を流れた水は、扇端部である武蔵野台地東部に至ると、やがて泉となって地表部に顔を出します。東京の23区と都下との境界線に沿って西側に南北に並ぶ石神井公園、善福寺公園、井の頭公園のそれぞれの湧水は、地下水が地表部に現れて湧き出しているところなのであって、同様に神田川や渋谷川、目黒川などはの源流もいずれも武蔵野の湧水なのです。
 
 立川崖線と国分寺崖線
 立川市や府中市、調布市の中心市街地が載っている立川面は立川崖線によって多摩川の沖積低地と分けられています。立川崖線は、青梅付近から多摩川に沿う形で立川市内まで続き、中央線の多摩川鉄橋の付近から東に向かい、立川市役所の南を通って、南武線と甲州街道の間をさらに東に向かいます。谷保の西で甲州街道の南にはいるとそこからは甲州街道のおよそ500mほど南を東に進み、狛江市元和泉付近まで続いています。
 立川面と武蔵野面とは国分寺崖線によって分けられています。国分寺崖線は武蔵村山市に始まり、国分寺市・小金井市と国立市・府中市の市境に沿って東に進みます。そこからさらに野川の北に沿いながら調布市に入って深大寺付近を通り、世田谷区の玉川地区南部、大田区の田園調布を経て多摩川河畔に至ります。世田谷区の等々力渓谷は国分寺崖線の一部になります。
 
 北部の河岸段丘
 一方、武蔵野台地の北部で見られる河岸段丘は、櫛状にノミで鋭く削ったような形状となっていますが、それらは現在流れている黒目川や落合川、柳瀬川によって侵食されたというよりも、古代の多摩川の流路と考えられています。現在の多摩川は東京都と神奈川県との県境付近を流れていますが、埼玉県との県境付近を流れていた時代があったとは驚きです。
 多摩川により造られた扇状地の北側が荒川の流路により大きく浸食されているように見えますが、これは海進期に荒川や利根川の流域に溺れ谷が湾入し、その後、海の後退にともない低湿な沖積地がつくられたものと考えられています。もともとこの周辺は扇状地ができあがった後に地殻変動により地盤が低下したことが知られています。

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崖  線

 崖線の湧水
 多摩川に面した地区では崖線のことを「ハケ」と呼び、その斜面地の多くは雑木林で覆われ、ハケ下には湧水がみられます。もともと丘陵山地の片岸を「ハケ」と呼ぶ地域は全国にあり、多く地名にもなっています。「水が滞りなく流れる。水が捌ける。」が語源なのではないでしょうか。野川の源流も国分寺市の「お鷹の道・真姿の池湧水群」という国分寺崖線下の湧水です。

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野川公園周辺

 上の図の赤い線での断面図は次の図のとおり。最も低い面である多摩川の沖積低地の標高は約40m。東京競馬場が立川崖線の縁に沿って造られているのがわかります。一段上の立川面は標高50m前後で、調布飛行場や多磨霊園、3億円事件の舞台となった府中刑務所(古い!)などが乗っています。野川公園(青い部分)もこの面にあり、国分寺崖線の縁に沿っています。一番高い面が武蔵野面で、標高は約70m。JR中央線はこの面にあります。赤い線の先あたりが多摩川水系と荒川水系との分水線にあたり、概ねその線上に玉川上水が開削されています。

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    の断面図

 野川公園
 野川公園は、調布、小金井、三鷹の三市にまたがり、野川と都道246号線(東八道路)とで三つの地区に分かれています。国分寺崖線に接し、豊かな自然が残されている野川の北側の自然観察園。野川と都道にはさまれた起伏のある芝生広場。そしてその南の広々とした芝生広場とテニスコートなどのエリアです。航空写真で見ると一目瞭然ですが、ここはもともと国際基督教大学(国分寺崖線を隔てて北側に隣接するキャンパス)のゴルフ場だったところ。周辺の神代植物公園、武蔵野公園、多磨霊園、調布飛行場、浅間山公園、府中の森公園などの緑地を含めた「武蔵野の森構想」のもとに昭和49年からゴルフ場を買収して造成を行い、昭和55年6月に開園しました。今では、中に入ってしまうとゴルフ場というよりは武蔵野の面影を残した緑地といった印象を受けます。

野川公園

 
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参考:「ねぎ氏」HP、「東京の自然史(増補第二版)」紀伊國屋書店発行、武蔵野台地-Wikipedia,ENCARTA百科事典