奥多摩むかし道 ~秋の渓谷に「祈り」を辿る(前編)~


 

 (前編)

【東京都 奥多摩町 令和3年11月13日(土)】
 
 秋が深まってきました。紅葉が里の山にもやって来て、野山歩きが一層楽しい季節になりました。今回はその紅葉を愛でるべく「奥多摩むかしみち」を歩くことにしました。東京の水瓶、奥多摩湖の小河内ダムまで電車とバスで行って、そこからJRの奥多摩駅まで歩いて戻って来るというもの。距離は10kmでそこそこ歩きごたえがあります。
 
                       
 
 5時半起床。この時期外はまだ暗いです。やがて朝食を取っている間に夜が明けてきて、快晴の空の西側が茜色に輝き始めました。ベランダに出てみるとかなり冷え込んでいました。
 6時半頃出発。電車を4回乗り換え、JR奥多摩駅に着いたのは8時48分。電車を乗り換えるたびに車内の山装備人口が増えていき、最後の青梅、奥多摩間はほぼ全員じゃないかと言うくらい。確かにこの時間に奥多摩に他の目的で向かう人はそういないでしょうね。
 奥多摩駅からは西東京バスです。ちょうど臨時便が出発するところだったのでそれに乗り込みました。満員でした。 そして目的地の奥多摩湖バス停に着いたのは9時10分。なんだかんだで出発してから2時間半以上かかりました。

 Kashmir3D

 今日のルートは、まさに奥多摩むかし道を辿るというもの。一応、氷川(奥多摩駅のある地区)側が起点で、水根(ダムに隣接する地区)側が終点とされているようですが、今日は逆から歩きます。その方が基本下り基調になるので(その標高差は260m)。
 奥多摩観光協会の資料によると、奥多摩むかし道を次のように紹介しています。
 「「奥多摩むかし道」は、旧青梅街道と呼ばれていた道で、氷川から小河内に達するまでの道です。この街道は、小菅から大菩薩峠を越えて甲府に至る甲州裏街道で、甲州街道より8kmほど近道であったそうです。現在の青梅街道は、柳沢峠を越えて塩山(甲州市)に至る道で明治11年に開通しました。昔、小河内の生活は、塩山との交易で支えられていました。大菩薩峠の無人小屋で物々交換をしていましたが、一度も間違いはなかったそうです。」
 青梅街道が柳沢峠を通ることになった結果、現在でも小菅から大菩薩峠は山道で、道路としては整備されていません。
 「その後、小河内の物産は、氷川への厳しい山道(14km)を避け、歩きやすい五日市(20km)に運ばれ、生活物資に変えられていました。岫沢(くきざわ)から風張峠に出て、浅間尾根を通り、本宿に下りて五日市に向かう道を通りました。」
 「歩きやすい」とはいえ風張峠も標高1100mくらいあり、決して楽なルートではなかったと思いますが、それに増して氷川への渓谷沿いの道が険しかったということでしょう。風張峠を越えてからも浅間尾根を通っていたということですから、やはり秋川の渓谷筋を避けたんでしょうね。
 「明治32年に、小河内と氷川間が、わりと平坦な山腹を通る道に改修され、道のりも10kmに短縮、交易ルートが氷川へと変わりました。以降、木炭の生産が飛躍的に増加しました。この後も氷川への道は、たびたび改修され生活の道となったのは大正から昭和初期に入ってからです。昭和13年、氷川~西久保間にダム建設資材輸送専用として造られた道路が昭和20年に一般道として解放され、現在の国道411号線になりました。」
 おそらくその昭和初期の道筋が奥多摩むかし道のルートだと思います。

 余水吐ゲート

 さて、満員のバスを降りるとこの風景。ここは小河内ダムのほとりにある園地で、大きな駐車場と「奥多摩水と緑のふれあい館」という学習施設があります。見えているのは小河内ダムの余水吐(よすいばき)ゲート。異常洪水などの際にダムの天端(てんば)から水があふれ出すのを防ぐための非常用ゲートだそうです。小河内ダムの場合、ここから下った水は直接ダム下に流れ落ちるのではなく、尾根一つ挟んだ水根側の支谷に流れ落ち、そこからダム下に合流します。

 小河内ダム本体

 こちらがダム本体です。都水道局のHPによると、天端の標高530m、本体の高さ149m、有効水深101.5m、有効貯水量1億8540万立方mだそうです。高さ深さはそれなりにイメージできますが、貯水量となると実生活でほぼ見かけないスケールなのでちょっとピンときませんね。ちなみに、管理事務所の電光掲示板には、「貯水位94.40m、貯水量1億5637.2万立方m、放水量7.51立方m/秒、貯水率84.3%」と表示されていました。結構貯まっているようです。

 奥多摩湖

 天端は自由通路になっていたので中程まで行ってみました。こちらがその1億5千万立方mの水を湛えた奥多摩湖。満水時の湖岸線の長さは43kmだそうで、山襞の一つ一つに入り込むようにしてこの奥約7km先まで続いています。

 水根集落

 さて、準備体操を済ませてスタートです。時刻は9時25分。まずは正面の山の中腹に見えている水根集落に向けて登っていきます。ちなみに、あの高さに集落があるのはダム建設に伴って高所に移転したわけではなく、まだダム工事の計画もなかった昭和4年の地図を見ても現在地に集落がありました。谷が細く深いため、日照時間が短く平坦地もない谷底よりも山の中腹を選んだということではないでしょうか。

 

 陸橋で車道を跨ぎ、青梅街道(国道411号線)の方に歩いて行きます。この先の坂道を下ると国道に突き当たり、そこを横断して向かいの山に登っていく感じです。

 「終点」

 ここが青梅街道から水根に向かって分岐する道の入口。氷川からスタートした奥多摩むかし道は青梅街道にぶつかるここで「終点」になります。いや、終点ではなく水根側の起点というべきでしょう。



 のっけからなかなかの急坂です。この後、上に見えている道を通ることになります。



 出た出た。青空に紅葉。よく映えますね。今日はこの紅葉も大きな楽しみです。



 こちらは黄葉。輝いていますね。アサノハカエデのようです。



 水根の集落まで上がってきました。眼下に奥多摩湖。小河内ダムの天端も見えていますね。絶景です。水根に長く住んでいた人は、ここにダムができること自体に驚いただろうし、実際にできあがってこの風景を目にしたときも衝撃だったでしょうね。谷筋にあった集落(当時温泉施設もありそれなりに賑わいもあったのでは)は消滅し、自分たちの生活だけはそのままあるという状況に、ちょっとしたカオスのような感覚に陥らなかったでしょうか。

 熊鈴

 歩いていると小型のパトカーが停車し、窓越しに駐在さんが話しかけてきました。なんだ、こんなところで職質か? と思ったら、「奥多摩むかし道で1時間ほど前にクマが出たようですよ」と教えてくれました。なんと。確かに奥多摩はクマによる事故が少なくない場所です。今日は紅葉を見ながら静かな山歩きを楽しもうと思っていましたが、お互い(自分とクマ)のために熊鈴を付けることに。
 この熊鈴は厚手の皮革に真鍮製の鈴が取り付けられているもので、もう20年近く使っていますが一向に壊れる気配もありません。この先を考えても自分の方が先に壊れそうです。



 車道を離れ右手前に向けて小径を上がっていき、集落の上に出ます。

 御前山

 どっしりとした御前山(1405m)。三頭山、大岳山とともに奥多摩三山に数えられる山だそうです。あの向こう側は檜原村。秋川水系の谷々が切れ込んでいます。明治時代半ばまではもっぱらあの尾根を越えて五日市に向かい、山の物産を売り、生活物資を買い求めて帰ってきていたんですね。



 集落を過ぎると山道になりました。



 谷の源頭部を小橋で渡ります。



 道の谷側は結構な斜度で切れ落ちています。つまずかないように。



 ああ、紅葉の下を歩く幸せ。奥多摩むかし道のほとんどは舗装路ですが、この辺りと終盤の一部分のみ山道で、むしろyamanekoとしてはこの山道の方が楽しみだったわけです。



 梢越しに奥多摩湖の水面が見えています。辺りに人影はなくyamaneko一人だけ。立ち止まると熊鈴の音も止み、急に静寂が訪れます。非日常のひとときですね。



 山側の斜面を見上げるとこんな感じ。うーむ、ガサゴソっとクマが出てきても不思議ではないですね。



 そしていかにもクマが冬眠に使っていそうな洞もありました。



 小河内ダムの余水吐ゲートが見えています。その右手の大きな山は倉戸山(1169m)です。今日は、まずダムから水根まで標高を上げ、そこから倉戸山の中腹をトラバースするようにぐるっとここまで回り込んできた格好です。眼下の谷は多摩川の支谷で、余水吐ゲートを下った水はこの谷を流れてダム直下に向かいます。
 ところで、小河内ダム建設のために氷川からこのダム下まで線路が敷設されていたのは有名な話。東京都水道局の専用線です。開通はダム完成の2年前の昭和30年で、ダム完成後は廃線となりました。ただ、廃線後数年して西武鉄道が観光開発目的でこの線を都から買収したことがあるそうです。そればかりか、これに接続する形でダムサイトから倉戸山山頂までケーブルカーを建設する計画もあったのだとか。時代はまさに高度経済成長期の入口。同じように全国あちこちで熱に浮かされたような開発計画が立ち上げられたんでしょうね。なお、実際には電車もケーブルカーも着工には至らなかったとのことです。
 一方、専用線開通のその年、ダム完成後に湖底に沈む小河内村は近隣町村と合併し奥多摩町となり、ダムの湛水を待つことなく一足先に地図上から消えることとなりました。成長の時代、こちらも日本各地で見られたであろう惜別のドラマがここにもあったことでしょう。



 紅葉のフィルターを通して朝日が差し込んできています。

 浅間神社

 浅間神社が現れました。この辺りが標高600mくらいで、今日の最高地点になります。なぜこんな山の中にと思いますが、この神社はこの先にある中山集落と水根集落との間に位置していて、集落を往き来する人々がここで歩みを止めて、作物の出来や子の健やかな成長を祈ったのだと思います。ちなみに双方の集落の標高は概ね同じくらいです。

 戸河内ダム


 浅間神社で世界平和を祈ってから再び歩き出し、しばらく行くと今度は小河内ダムの堤体が望める場所に出ました。でかいです。相当の水圧がかかっているでしょうね。

 中山集落

 ほどなくして木立がきれ、中山集落に出ました。斜面に張り付くようにして家が建っています。谷の底から160m、青梅街道からでも50mほど高いところにあります。奥多摩むかし道は写真の白い軽自動車のところでV字に折れて手前側に下って行きます。

 シュウカイドウ

 集落の外れにシュウカイドウが咲いていました。この時期、出会える花は少ないです。



 中山集落から下っていく道はまっすぐに延びていました。地図で見ると300mほども延々と。



 傾斜が緩み、少し開けたところ出ました。時刻は10時15分。出発してから50分が経過したところです。ここでザックを下ろして小休止することにしました。ここにはなにやら遺構ののようなものがありましたが、調べてみるとどうやらダムの工事事務所のようでした。



 5分ほど休憩してから再び下り、ほどなくして舗装路に出ました。この道は青梅街道から分かれてダム下までつながっている道で、往時はここに線路が敷設されていたようです。
 ここからルートはジグザグに折れて行きます。まず舗装路を手前に向かっ折れ、20mほど先で再びV字に左手前に折れて下って行きます。



 そのV字に折れるところがここ。左に折れると、あとは基本的に渓谷に沿った道となります。ちなみに正面にはフェンスが張ってあって、その先のダム下には行けないようになっていました。



 すぐにベンチとトイレのある広場が現れました。ちょっとした公園のようになっています。
 この道が戦前まで氷川に向かうメインルートだったわけです。昭和13年にダム工事用に造られた道路が戦後一般開放され青梅街道となってからは、この道は一部廃道になっていたようですが、平成元年に奥多摩むかし道として整備されたとのことです。写真の見事なモミジは平成7年に奥多摩町発足40周年記念として植栽されたものだそう。ちなみに青梅街道は正面の山の中腹を通っています。

 イロハモミジ

 イロハモミジ。彩りのグラデーションです。



 一応車も通行することはできるみたいですが、この辺りでは1台も行き会いません。紅葉を楽しみながらのんびりと歩けます。



 イロハモミジが道の法面から生えていて、ちょうど目の高さに紅葉を眺められるのでラッキー。
 (写真の右上に写っている道路は、青梅街道からダム下に向かって下りていく道です(さっきフェンスで行き止まりになっていた)。)



 ダンコウバイの黄色もいいですね。



 真っ赤でなくても、真っ黄色でなくても、こういうのも趣あり。



 梢越しに川の流れが。隠れた景勝地ですね。

 道所吊橋

 10時40分、渓谷の中に道所吊橋が現れました。林業のために架けられたもののようで、雰囲気としては明治期の遺構のようでしたが、昭和51年竣工だそうです。なお、同時に渡れるのは2人までと規制されていました(数年前までは5人までだった模様)。



 橋の中程から上流側を見たところ。V字谷です。



 下流側。ダムができるまでは流れも激しかったのでは。

 玉堂歌碑

 吊橋から3分ほどで小広い所に出ました。石版は川合玉堂の歌碑でした。川合玉堂って「なんでも鑑定団」でしか聞いたことがありませんが。
 玉堂は晩年、御岳(現青梅市)に移住し、そこで生涯を終えたそうですが、若い頃この小河内の渓谷に何度か写生に訪れたことが移住のきっかけだったそうです。歌碑には「山の上のはなれ小むらの名を聞かむ やがてわが世をここにへぬべく」とありました。玉堂29歳のときに詠んだものだそうです。

 虫歯地蔵

 解説板に「虫歯地蔵」とありました。昔の民間信仰ですね。目の高さより上にあったので気がつきませんでした。
 昔、人々は歯が痛くなってもどうすることもできず、祈るしかなかったのでしょうね。煎った大豆をこのお地蔵さんにお供えしたのだそうです。

 牛頭観音

 こちらは牛頭観音。馬頭観音は良く見かけますが、牛頭観音はあまり見かけた記憶がありません。
 もともと馬頭観音は観音菩薩の変化身「六観音」の一つで、六種の観音が六道に迷う人々を救うという考えから生まれたものだそうです。そのうち馬頭観音は畜生道の担当だとか(他に、例えば千手観音は餓鬼道担当、十一面観音は修羅道担当など)。恐いような頼りになるような。
 それが庶民の生活の中では、「馬頭」の名から身近な馬に結びつけられ、労働力でもあり財産でもあり家族のような存在でもある家畜の馬を守る仏様として信仰されたようです。日々の暮らしの中で仏僧の説く六道輪廻の話など何の腹の足しにもならず、むしろ切実な問題として家畜が無事であってほしいと馬頭観音を拝むことの方が重要だったということでしょう。ひるがえって牛頭観音は、その対象が馬ではなく牛だということなのでしょうね。
 ちなみに。「牛頭」は「ごず」と読むようです。



 木漏れ日の下を歩いて行きます。昔の人はこの道を(当時はもちろん山道)牛や馬を引いて歩いたんでしょうね。

 馬の水飲み場

 ほどなく馬の水飲み場という場所が現れました。岩の上の方に何やら石碑(仏像?)がありますが、おそらく表面のレリーフが摩耗してしまって、跡形もなく真っ平らになってしまったもののようでした。解説板には、「ここで馬を休ませ、かいばを与えました。馬方衆は「たてば」と呼称されている茶店で一服休憩ということになりました。茶店は、ゴーロ、清水、大島屋の三軒があって、駄菓子、うどん、まんじゅう、たばこ等が商われ、一杯酒もありました。」との説明が。



 水飲み場のはす向かいに3軒の廃屋がありました。「たてば」の茶店と何か関係があるのでしょうか。2、30年くらい前までは人が生活していたような雰囲気がありましたが。



 さて、奥多摩むかし道の散策も3分の1程度が過ぎました。時刻は11時前です。時間はたっぷりあるので、これから先ものんびりと。(後編に続く)