武田山 〜人々の暮らしと共に〜


 

【広島市安佐南区 平成17年4月17日(日)】
 
 政令指定都市、広島。
 政令指定都市とは人口50万人以上の市に都道府県の権限の一部を特例的に委譲するもので、実際には人口100万人をめどに指定されています。つい最近指定された静岡を含め、現在、横浜、名古屋、大阪など14市が指定されています。いわば大都市の証です。
 このように広島は全国でも有数の大都市なんですが、もともと平地が少ないので都市と山とが隣接し、いわゆる「里山」があちこちに点在しています。yamanekoのような都市生活も捨てきれない野山歩きファンにとっては絶好のロケーションなのです。 

 そんな里山のひとつ、安佐南区にある武田山が4月定例観察会のフィールドです。武田山は三方を市街地や住宅地に取り囲まれ、周辺地域に暮らす方々にとって生活に密着した山として親しまれているのです。
 今日のリーダーの小方さんも武田山のふもとに暮らす市民の一人。この山にはひとかたならぬ思い入れがあるようです。

 開会

 午前9時半、JR可部線の下祇園駅前で開会。今日は地元のケーブルテレビが取材に来ていました。
 今日の参加者は52人。暖かくなってきたことに加えこの晴天。冬場の観察会に比して集まりがいいようです。
 まず、加藤代表からの時候解説。今年はいろんな花がいっぺんに咲いたように感じるとのこと。この冬は全体に寒く、早春に咲くべきものの開花時期がずれ込んだからではないかということです。例えるなら短い夏の間に一気に咲く高山植物のように。また、今年は総じて樹木の花付きがいいのだそうです。これは昨年猛威を振るった台風に原因があるのではないかとのこと。台風で痛めつけられた樹木が危機感を感じ、対抗策として花をしっかり付けて子孫を残さなければと考えたのではないかということです。ちょうど枯れかかった松の木がマツボックリをたくさん付けるように。

 武田山

 10時に駅前広場を出発した一行は、町工場や民家の間の道を通り抜け、やがて昔ながらの里の風景が残る小径を行きます。段々になった畑にはハーブやクレソンなどが栽培されていました。用水路の縁には濃い紫色のキランソウ。春がやって来たと実感できます。
 坂道を歩いていると、早くもうっすらと汗がにじんできました。

 憩いの森

 やがて憩いの森に到着。車で上がって来られるのはここまでです。今シーズン最後の花見を楽しむグループが何組かすでに宴会を始めていました。青空の下で飲むビール、美味いだろうなぁ。
 参加者のみなさんが順番にトイレに行っているわずかな時間を利用して、小方さんから桜の語源についての説明。ちょうど散りゆく桜の中での解説になりました。
 
 10時30分、憩いの森の最奥部にある登山口に到着。コバノミツバツツジが咲いています。ここからは山道です。
 ウワミズザクラ、アカメガシワ、ナナミノキ、アベマキなど、木々は新しい葉を広げ始めています。ヒサカキの何とも言えない匂い。これも春の山の特徴的な匂いです。

 憩いの森

 武田山の登山道には地元のまちづくりグループの方々によって樹木名札が取り付けられています。今日はその活動に協力する形で、名札を取り付けたい木にマークをしていきました。

 木漏れ日の道

 木々の梢から漏れてくる光は風景をマーブルに彩ります。心地よい山歩き。ふもとの広島経済大学から野球の歓声が聞こえてきます。長閑な休日です。

 アリジゴクの巣  その巣の主

 登山道脇の山肌にいくつかアリジゴクの巣をみつけました。雨水が当たらないよう庇状になったその下の部分にあります。漏斗のような砂のすり鉢で、直径は3pほどでしょうか。最も深い中央部の砂の下にアリジゴク(ウスバカゲロウなどの幼虫)が隠れていて、誤って巣に落ちてしまったアリなどを捕まえ、その体液を吸うのだそうです。そしてカラカラになったアリはポイッと巣の外にほうりだされるのだそうです。
 もっともアリもなかなかのもので、巣に落ちても脱出するものも少なくないそうですが。

 馬返し

 12時、馬返しまでやってきました。ちょっとした広場になっていて、ここから山頂を臨むことができます。
 ここから道が険しくなることから、昔、ふもとから馬で運んだ荷物をここから人が背負って運んだのだそうです。
 それにしても暑いくらいの陽気です。先頭はだいぶ前にここを通過したでしょう。少しスピードアップです。

 用水路?

 武田山の登山道はあちこちが写真のように掘り込まれています。これは人が掘ったものではなく、雨水が登山道を流れ下るうちに深く掘れてしまったものです。
 雨水を横に逃がすような溝を掘ってある山もあり、これがなかなか有効なようですが、ここまで掘れてしまってからではそれも難しいようです。

 御門跡

 12時20分、御門跡に到着。ここからは南東方向の展望が開けています。
 ここは通路が何度か直角に曲がるように石が積み重ねられていて、近世の城の入口にある「枡形」の原型と言われています。
 ウグイスの鳴き声が聞こえてきます。よく澄んだ声です。

 山頂まであとわずか

 千畳敷と呼ばれる、当時本丸があったとされる場所を過ぎると、あとわずかで山頂です。先頭グループはもう弁当を開いているでしょう。

 山頂

 12時30分、山頂(411m)に到着しました。
 今日は他にもいくつかのグループが登っていて、山頂は大混雑。何かイベントを行っているグループもあります。地域と密着し地域のシンボルとして愛されている山であることが分かります。

 山頂からの眺めは期待していた以上のものがありました。
 東方向には、武田山と同じように広島の街を囲む山々が連なっています。1月に登った木宗山、2月に登った二ヶ城山、3月に登った鬼ヶ城山。みんなそれぞれの地域で親しまれ、愛されている山々です。

 武田山の歴史は…

 昼食後、リーダーの小方さんから武田山の歴史について解説がありました。
 概要はこうです。承久の乱で武功を立てた甲斐の国の武田氏は、安芸の国の守護職に任命されるとその本拠をこの山に据え、銀山城(かなやまじょう)を築いたといわれています。任命当初は代理の者を派遣して統治させていたそうで、安芸の国に初めて赴任したのは承久の乱から50年あまり経った後。武功を立てた武田信光の孫信時であったと伝えられています。銀山城を築城したのは更に後で、その信時の孫にあたる信宗の時代であったそうです。(似たような名前で、覚えられません。)
 当時、武田山のふもとには市場や各地の荘園から運ばれてきた物資を保管する倉敷地などが広がっていて、この要衝を押さえることは安芸の国を統治するに当たって必要不可欠なことだったと言われています。
 銀山城は守りの堅い城で、戦国時代、中国地方統一を目指して山口から攻めてきた大内氏の度重なる攻撃もはね返してきたそうです。しかし、武田氏の勢力が衰えてきたとみると、大内氏の命を受けた毛利元就らは巧みな戦略を仕掛け、難攻不落を誇った銀山城もついに落城したといいます。以後、銀山城は大内氏の支配下に置かれ、数年後には毛利元就自身が居城として入城してきました。ときに1554年、承久の乱から3百数十年の時間が経っていました。(「祇園まちづくりプランプロジェクト」作成の資料を参照しました。)

 春の午後

 桜の枝越しに見るふもとの景色。当時の兵(つわもの)たちも同じような眺めを目にしたでしょうか。 

 宗箇山(南方向)

 1時45分、下山開始です。登りとは別のコースをたどって下っていきます。
 眼下には山を削って谷を埋めて造成した大住宅地が広がっています。でも建物はほんのわずかしか建っていません。

 コバノミツバツツジ

 コバノミツバツツジが満開です。まるで食紅で染めたような色です。蜜を求めてやって来る虫たちには何色に見えているでしょうか。ハチには赤色が見えない代わりに紫外線の部分の色が見えているとのこと。人間と比べて可視領域が紫色側にずれているそうで、このコバノミツバツツジもまったく別の色に見えているのかもしれません。

 下山路

 下山路沿いにも興味深いものがいっぱい。虫コブ、キノコ、イノシシの仕事の跡…などなど。その都度あれやこれやと話し込むので、なかなかペースが上がりません。先頭でリーダーはやきもきしていることでしょう(スミマセン。)
 
 3時30分、ふもとの住宅地にある広場で解散。ここからまたJR下祇園駅を目指して下っていきます。
 けが人もなく、無事に観察会を終えることができました。リーダーの小方さん、ご苦労様でした。