高松山 〜歴史の山を歩いてみよう〜


 

【広島市安佐北区 平成17年3月20日(日)】
 

 可部の街並みと高松山
 (撮影:吉岡指導員)

 3月も下旬になろうとしているのにいつまでも寒いです。今年はなかなか暖かくなりませんねェ。
 スギ花粉の飛散とも相まって、つい出かけるのもおっくうになってしまいます。でも月に一度の定例観察会とあっては家でじっとはしていられません。テキパキと準備を済ませ出発です。 
 今月の定例観察会は広島市北部に位置する高松山。ふもとの可部町に住む人たちにとっては愛着のある特別な山です。

 開会の様子

 集合は可部の中心部にある安佐北区総合福祉センター。
 9時30分、今日のリーダー吉岡さんからのテーマ紹介から始まりました。彼はここ可部の住人でもあります。今回のテーマは「地域の歴史と早春の里山観察」。可部は昔からの商人の街で、その身近な里山である高松山には人との長い関わりが歴史となって残っています。今日はそんなごく普通の里山をゆっくり観察してみようというものです。
 そして今回は地元から強力な助っ人が。まちづくり市民グループ「可部カラスの会」の梶川さんに同行していただくことになっているので、今日は興味深い話をたくさん聞かせてもらえそうです。
 「可部カラスの会」とは、平成8年に安佐北区役所が開催したまちづくりワークショップ事業をきっかけに生まれた市民グループです。商才に長けた可部商人が利口なカラスに例え称されたことにちなみ、その名前を会の名に冠したとのことです。

 登山口

 オリエンテーションが終わると、登山口のある可部高校のグラウンド脇まで移動します。
 登山口には高松城(高松山山頂にあった山城)の解説板が建っていました。ここで梶川さんから高松城主熊谷氏についての分かりやすい解説がありました。概略は次のとおりです。
 
 鎌倉幕府が誕生してから約30年が経ち世の中が武士が実権を握る武家社会となったころ、政権を朝廷に取り戻そうとした後鳥羽上皇が倒幕の兵を挙げたのが承久の乱。朝廷側には西国の勢力がつき、幕府側には東国の勢力がついて刃を交えましたが、勝敗は幕府側の大勝という形でわずか2ヶ月で決しました。幕府は西国にある公家方の所領を没収し、そこに戦で功のあった東国武士を地頭として大量に送り込みました。
 武蔵の国は熊谷郷(現埼玉県熊谷市)で勢力を振るっていた熊谷(くまがい)氏も地頭として安芸の国の三入荘(みいりのしょう)(現安佐北区三入)に赴任してきました。初めは高松山から3qほど北にある標高50mほどの小山に陣取っていましたが、防衛には極めて具合が悪いということで、後年になって高松山(339m)に城を築きました。だいたい西暦1400年頃のことと考えられています。
 高松山は平均斜度27度という急峻な山で守り易く攻めにくいうえに、山頂には井戸もあり長期の籠城に適していました。
 それから約200年後、関ヶ原の戦いでは毛利氏とともに西軍として奮戦しましたが、武運拙く西軍は敗れ、熊谷氏は毛利氏とともに萩へ流れていきました。熊谷氏が可部にやって来てから350年あまりが経った頃のことです。その後、徳川幕府が定めた「一国一城令」により、高松城は跡形もなく取り壊されてしまいました。
 現在、頂上には大きな城跡があります。幅は広くはないものの長さは170mくらいあり、祇園の武田山(安佐南区。高松山から約10q)の銀山城に匹敵するような大きな城跡です。(銀山城には甲斐の国から守護職として武田氏が赴任してきていました。) 

 スタートです

 10時20分、あらためてスタート。最初は谷筋の道を登っていきます。
 周囲はアカマツの二次林が放置され常緑広葉樹が勢力を伸ばしはじめた感じの森です。

 解説板

 植物に解説板が付けてあります。この解説板は可部カラスの会が中心となって作成・設置されたものです。

 シナアブラギリ(実)

 道ばたにシナアブラギリの実が落ちていました。
 アブラギリといってもキリ(桐)の仲間ではありません。キリの種子はごく小さく一つの実の中に大量に入っていますが、シナアブラギリの種子はツバキの種子のような形をしていて、一つの実に4〜5個入っています。だからといってツバキの仲間でもありません。(ややこしい!) 葉を見るとアカメガシワによく似ています。そう、シナアブラギリは同じトウダイグサ科のアカメガシワの仲間なのです。

 谷筋の道

 山の中にはヒサカキのあの特徴のある香りが漂っていました。春の山の香りです。また、アブラチャンやシキミが花を付けようとしています。やっぱり春はすぐそこまでやって来ているのです。

 山肌を登る

 11時35分、沢筋のどん詰まりまでやって来ました。ここからは山肌をジグザグに登っていきます。
 頭上には梢越しに薄曇りの空が広がっています。

 高松神社

 11時50分、稜線に出ました。急に明るくなったと思ったらまもなく高松神社に到着です。
 高松神社は山頂直下の南に面した平坦な場所に建立されています。別名愛宕神社。もともとは勝軍地蔵がご神体ですが、江戸中期の享保年間、可部の町に大火があったことから、京都の愛宕神社から火除けの神様を招いて併せ祀っているのだそうです。

 山頂

 高松神社を過ぎるとすぐに山頂です。
 山頂からの展望は木立に遮られて今ひとつ、ということでしたが、最近眺めがよいようにその木立を伐採したとのことです。それにしてもずいぶん思い切って切り倒したものですね。

 阿武山 【南】  福王寺山 【西】

 12時5分、山頂に到着しました。カメラの不調で写真が白けていますが、実際にはなかなかの眺めです。
 南には阿武山が陣取っていて、そのふもとを太田川がグルリと回っています。北西から南東に向かって蛇行しながら流れてきた太田川は、ここでヘアピンカーブし北東から南西に向かって流れていくのです。
 西から北にかけては、福王寺山、堂床山、可部冠山などが連なっています。

 可部と京都の関係は?

 昼食後、再び梶川さんのお話。なぜか可部と京都には驚くほど共通点があるのだそうです。
 それは可部と京都の地図を重ね合わせてみれば一目瞭然(?)であるとのこと。ただし縮尺は半分にしなければなりませんが。
 確かに平地と山地との入り組み方が似ています。たとえば、京をV字形に流れる鴨川と桂川は可部では根之谷川と太田川。大文字山のある位置には高松山(なんと高松山では毎年京都と同じように大文字祭りが行われます。)。嵐山の位置には阿武山、比叡山の位置には白木山、御所の位置には土井屋敷(熊谷氏の政庁)。と、数え上げたらきりがありません。熊谷氏はあきらかに京都を意識して街を作った、と言いたくなるのも無理はないかもしれません。
 最初は笑い半分で聞いていた人たちも、話も後半になると真顔で頷いていますした。

 背後から見た高松山
 (白木山から)

 1時になりました。休憩を終え、ここから三入神社に向けて山の反対側を降りてゆきます。
 三入地区には昔ながらの田園風景の地区と新興住宅地の地区とが混在しています。上の写真の右側にある緑の城壁に囲まれた内側が新興住宅地の桐陽台団地。小高い丘を造成して造られています。緑の城壁の外側が昔ながらの三入の集落で、懐かしい風景が広がっています。

 下山路の梢越しに見る桐陽台
 (背後は白木山)

 放置されたスギ林と自然林との境界の道。アップダウンを繰り返しながら黙々と歩いて行きますが、この空間にスギ花粉が無数に飛んでいるかと思うとぞっとします。

 三入南地区

 2時5分、里に下りてきました。どこにでもある日本の田舎の風景です。
 ここから三入神社までは20分ほど。上の写真の真ん中にある小高い森の上にあります。

 参道には鳥居  境内には鐘楼

 野辺の道を歩いて参道に到着。あとは鳥居をくぐって長い階段を上るだけです。
 何段あるかは数えていませんが、かなり長い石段を上りきると、広い境内が。あれ?鐘楼があります。ここは神社なのか?お寺なのか?
 これは神仏混淆(または神仏習合)といって、日本固有の神様と仏教の菩薩様とを同一視して同じところに祀って信仰する形態。古くは奈良時代に始まり、日本のあちこちで見ることができます。
 
 2時30分、全員が三入神社に到着したところで今日の観察会は終了。ここで解散となりました。
 今年度の観察会もこれで終了です。大きな事故もなく無事一年のスケジュールを終えることができました。スタッフをはじめ会員の皆さんのおかげと感謝することしきりです。
 yamanekoとしては、仕事の都合で6月の観察会に参加できなかったのが心残りですが、まあ、しょうがないか。
 


 ところで今日は彼岸の中日。開会の際、加藤代表からこんな話がありました。
 「暑さ寒さも彼岸まで」という言葉がありますが、春の彼岸の頃と秋の彼岸の頃の気温は同じなのか。
 服を着た状態で心地よいのはだいたい18度前後だといいます。春の彼岸の頃は最低気温(平均値)は5度前後ですが、最高気温(平均値)は快適気温の18度に割と近づいています。一方、秋の彼岸の頃は最高気温はまだ27度くらいありますが、最低気温は18度くらいです。
 すなわち、春の彼岸の頃、明け方の冷え込みはまだ厳しいが日中の陽気で暖かさを感じ、春の訪れを知る。また、秋の彼岸の頃、日中はまだ残暑のさ中だが朝夕が過ごしやすくなったことで涼しさを感じ、秋の訪れを知る。ということなのだそうです。ふーん、なるほど。