狭山丘陵 〜人の手が作り、守っていく自然〜


 

【東京都 武蔵村山市 平成22年2月14日(日)】
 
 寒い! 今年の冬は寒いです。都心でも既に数回降雪があり、毎朝背中を丸めながら通勤しています。そんな真冬の日々が続いていますが、この週末ようやく晴天が訪れたので、満を持して野山に出かけました。場所は狭山丘陵。東京都と埼玉県の境にあって、武蔵野台地にぽっかりと浮かぶ丘陵地です。
 
                       
 
 午前9時半、ドリーム号で家を出て、首都高4号線へ。今回は中央道を走って国立府中ICから一般道を北上しましたが、そこそこ混んでいたので、はじめから青梅街道を走ったほうが早かったかもしれません。


Kashmir 3D

 武蔵野台地は青梅付近を扇頂とする扇状地。細かく見ると、新旧いくつかの扇状地が段丘化したものからできていて、長い時間をかけて古い扇状地を浸食したり、覆い隠したりしてできた地形が見られます。狭山丘陵はその一番古い扇状地の残片だそうです。
 丘陵の南東側にある貯水池が村山貯水池(多摩湖)、その北側が山口貯水池(狭山湖)です。この人造湖は、大都市圏東京に水を供給するため、狭山丘陵内の谷をせき止めて大正時代に造られたものです。その水源の保護林として狭山丘陵の里山環境が維持されてきました。


Kashmir 3D

 午前11時、武蔵村山市にある野山北公園運動場の駐車場に到着。今日はここから狭山丘陵の南縁を辿ります。
 狭山丘陵の縁は丘陵の奥に向けてたくさんの谷戸(谷地)が切れ込んでいます(上図にマウスオーバー)。そこには湧水などもあり、農耕に適していたことから、古くから集落が作られていたのだそうです。遺跡も多いそうです。

 あそびの森

 駐車場の北側にあるフィールドアスレチック「あそびの森」から丘陵の中に入っていきます。

 クヌギ

 葉をすべて落としたクヌギの林は、隅々にまで光が降りそそいで明るいです。典型的な武蔵野の野山の風景です。クヌギやコナラの落葉広葉樹林は、材は薪炭として、落ち葉は堆肥として、たくさんの資源を生み出してきました。また、大量のドングリは多くの生き物を支えてきたでしょう。

 アカマツ

 「遊びの森」を過ぎると尾根道になりました。この辺りはアカマツの混じる林です。アカマツはまっすぐに伸びて樹林の上に頭一つ抜けだし、そこで葉を繁らせます。これは生育にたくさんの光が必要なためで、このようなタイプの樹木を「陽樹」というそうで、ほかにはハンノキやダケカンバが挙げられます。反対に最低限必要な光の量が少なくて済むものを「陰樹」といい、クスノキ、ブナ、シイなどがその代表です。

 モンスター  キヅタ

 朽ちた木をキヅタが覆い尽くしていました。モンスターのようです。近づいてみると果実が。これから春に向けて黒く熟していきます。それにしてもこの果実、ヤツデの果実に似ていませんか。そう、キヅタはヤツデと同じウコギ科なのです。ちょっと意外ですね。ウコギ科の果実はこのタイプのものが多いです。

 六地蔵

 しばらく行くと周囲が開け、いくつかの道が集散している場所に出ました。真ん中に供養塔のようなものがあり、近寄ってみると「六地蔵」と記されていました。見ると正面と左右の面に2体ずつ、計6体のお地蔵様が彫られていました。解説板によると、明治30年の夏から秋にかけて赤痢が大流行し、麓の4つの集落で合わせて51人がなくなったとのことで、その供養のために人々が募金をして建立したものなのだそうです。材質は砂岩のようで、建立から100年を経過し、あちこち欠損していました。

 インフォメーションセンター(IC)

 六地蔵からはいったん尾根道をはずれ、細田谷戸に向かって谷を下りていきます。途中、インフォメーションセンターがあったので、寄ってみました。ここは公園レンジャーの活動ベースでもあります。

 赤坂谷戸

 谷を下りきると、隣の赤坂谷戸を奥に向かって歩いていきます。

 残雪

 日陰には雪が残っていました。空気もヒンヤリです。

 クサギ

 クサギがドライフラワーになっていました。クサギといえば、白い花よりも、周囲をショッキングピンクの萼に囲まれた青紫の果実の、ちょっとけばけばしい姿が印象に残りますが、今は冬の光を浴びて趣のある姿に変わっていました。

 再び尾根へ

 赤坂谷戸の奥から斜面を登り、再び尾根道に向かいます。この辺りには林床にササがはびこっています。

 輝く葉

 一列に並んだ葉っぱが風に揺れています。めざしのようにも見えますが、これはセイタカアワダチソウです。薄暗い林をバックに明るく輝いていました。

 猿久保

 尾根筋を歩いていくと猿久保という場所に着きました。ここには芝生の広場とベンチ、あときれいなトイレも。もう少し暖かくなったら、弁当を持ってハイキングに来るのにもってこいのところです。日当たりもいいし。

 コウヤボウキ

 これだけでも立派に花のように見えますが、これはコウヤボウキの花の萼の部分が残ったもの。花の少ない季節にも野山には面白いものがたくさんあります。

 尾根筋の道

 尾根筋に延びる道の北側は、貯水池の水源保護林として立ち入りが禁止されています。長らく人の手が加えられていないようで、鬱蒼とした森になっていました。

 展望台

 しばらく行くと展望台がありました。この辺りが狭山丘陵で最も標高の高いところ。それでも200m弱です。この展望台の上で標高205mだそうです。狭山丘陵を俯瞰するにはちょうどいい場所。さっそく上ってみましょう。

 北東方向

 丘陵とは、台地のような平坦な面はないものの、山地と呼ぶには起伏の小さい地形のことをいうのだそうです。上の写真を見る限り平坦な台地のように見えますが、それは幾重にも連なる陸地の輪郭が重なって平らに見えているだけ。そのような地形になったのはこの丘陵の成り立ちに関係しているとのことです。
 狭山丘陵の基盤は第三紀層(新生代第三紀(6500万年前から180万年前)に堆積した地層)で、これは堆積岩や火成岩からなる比較的固い「岩盤」と呼ばれるもの。その上に洪積層(新生代第四紀の洪積世(180万年前から1万年前)に堆積した地層)がほぼ水平に乗っているのだそうです。洪積層も良好な地盤で重要建築物は洪積層が露出しているところに建てられていたりすることが多いそうです。その洪積層が長く陸上で浸食作用を受け、そのせいで谷がよく発達し、もともと水平に重なっていた洪積層の平坦面がなくなってしまった、これが狭山丘陵です。これは多摩川の南側に広がる多摩丘陵と同じ成り立ちなのだそうです。

 南方向

 南に目を転じてみると、ちょっと霞んでいますが、立川周辺の市街地が広がっていました。最奥の水平な丘の連なりが多摩丘陵の輪郭です。

 雑木林

 展望台の周辺の雑木林を散策してみます。雑木林は昔から定期的な伐採や下刈り、落ち葉かきなど、人の手によってその環境が維持されてきました。そうすることによって、そこからの恵みも継続的に得ることができたのです。経済社会や人々の生活様式が変わってしまった現在、山に人の手が入らなくなって久しいといいます。それは産業構造の転換などによって人々が里山からの恵みを必要としなくなった、もっと効率的に恵みを得ることができるようになったということでしょう。里山が育んできた生態系など、失うものも大きかったのでしょうが。

 里に向かって

 展望台からは南に向かって張り出した尾根の道を歩きます。ここから宮野入谷戸というところに下りて行きます。

 タラヨウ

 ホットドックのようなシルエットの葉。タラヨウの葉です。葉の裏に細い棒で文字を書くと、やがてそこが黒く変色して、しかも長期間にわたってくっきりと残るというのが特徴で、インドで葉に経文を書く多羅樹から名が付いたといわれています。この葉に文字を書いたことが「葉書」の語源とかまことしやかな話を聞きますが、葉書の語源は「端書き」という説も。ちなみに切手を貼ればタラヨウの葉も立派に葉書として使うことができるそうです。

 宮野入谷戸へ

 尾根道を下って行くと、疎林の先に谷戸が見えてきました。

 岸たんぼ

 宮野入谷戸の出口に近い部分は水田になっていて「岸たんぼ」と呼ばれています。その奥は茅場となっています。「岸」というのはこの辺りの集落の名前です。これぞ里山風景といったところで、人々は田で稲を作り、茅場で萱を刈り、林縁では柴刈りをし、山ではキノコを採ったり薪炭を作ったりしたのでしょう。このどこかホッとする風景は、継続的に人の手が入ることにより結果的に作られたものなのです。

 里山民家

 岸たんぼから更に出口に向かっていくと、萱葺きの古民家がありました。入ってみると、立派な造りです。この古民家は、狭山丘陵周辺に実在した宮鍋家住宅という名主クラスの民家をモデルに平成12年に新築、再現されたものだそうです。(実際の住宅は昭和60年に取り壊されていましたが、その際詳細な文化財調査がなされていたので、忠実に再現することができたのだそうです。)
 ここでは、さまざまな里山体験のイベントが開催され、公園ボランティアの活動の拠点となっているそうです。

 囲炉裏端

 この民家は、名主クラスのものだっただけあって、往時は奉公人などを含めて15人くらいが暮らしていたのだそうです。囲炉裏には火が入っていました。ここから立ちのぼる煙は屋根に葺かれた萱を燻して、その耐久性や撥水性を高める役割をするのだそうです。

 竈

 土間の片隅には竈(かまど)が並んでいました。大家族の食事を賄うために大小4基あります。竈は土間より一段低く堀りこんだところに作られています。これは竈からでる灰を集めやすくするためだそうです。

 中二階

 囲炉裏のある座敷から土間をはさんで反対側にある中二階。ここでは奉公人が寝起きしたのだそうです。その天井の上が御蚕様を飼っていた場所です。

 レンジャーの方

 今日は、ちょうど月に2回の「里山ガイドウオーク」が行われる日だったようです。「参加しませんか」とのお誘いを受けたので、どれどれって感じで参加してみました。「里山ガイドウオーク」とは、この周辺での自然観察をレンジャーの方がガイドしてくれるというもの。テーマは毎回異なるそうで、今日は野鳥観察。担当レンジャーの方の得意分野だからだそうです。

 丸山

 午後1時半から1時間程度ののんびりとした自然観察。いいですね。
 古民家の裏手にはこんもりとした里山が。丸山という山です。里山は生活の資材を調達する場所で、先ほどの15人程度の一家の1年間の生活を賄うのに、この丸山1個程度が必要だったそうです。

 野鳥の観察

 刈り取りが終わった田圃にはセグロセキレイが。落ち穂を拾っているのか、それとも土の中の虫を探しているのか。ツグミの姿も見えます。ツグミは冬鳥で、4月くらいまではお目にかかれます。

 カヤ

 カヤの穂をついばむのはホオジロです。アオジやジョウビタキ、カシラダカも茅場の中を行ったり来たりしていました。林縁から伸びる枝にはモズが。モズは漢字で「百舌」と書きますが、これはいろんな鳥の鳴き真似をするからだそうです。高い木のてっぺんにはシメが佇んでいました。てっぺんはシメの好きな場所なのだそうです。

 タカアザミ

 田圃の畦道にタカアザミが立っていました。もうすっかり乾燥しています。茎は無骨に太く、高さは2mくらいあり、真っ直ぐに立つその姿は古武士のようでもありました。

 卵塊

 谷戸の奥の水場にはヤマアカガエルの卵塊が。ヤマアカガエルはまさに里山環境を好むカエルです。卵は生み付けられてから2週間ほどで孵化するそうですが、この卵を産んだ親ガエルはこの水底で春まで冬眠しているはずです。

 オオタカの林

 谷戸の奥に広がる林。ここでオオタカが営巣しているのが確認されているそうです。オオタカは食物連鎖の頂点に位置するため、生態系が健全に保たれている自然が残っていないと生息できません。
 オオタカはハトやツグミ、シジュウカラなどを狩り、1年間に20sの肉を食べるのだそうです。シジュウカラにしてその数1500羽分。そのシジュウカラは1羽で1年間にシャクトリムシなどを10万匹食べるのだそうです。オオタカ1羽を1億以上の命が支えている。ちょっとビックリするような数字ですが、里山はそれだけの命を育んでいるということなのです。すごいですね。
 
 いつのまにか空には薄雲が広がり、肌寒くなってきました。指先もかじかんできています。古民家に戻ってきてガイドウオークは終了しました。思いのほか楽しかったです。
 今日は狭山丘陵がもつ自然の素晴らしさの一端を見たような気がします。それにしてもよくぞこれだけの自然が残されたものです。
 狭山丘陵では、平成2年に自然と文化財を守るためのナショナルトラスト運動が起こり、以来、所沢市内に10カ所のトラスト地を取得しているそうです。大都会の中に残されたこの貴重な自然を目にすると、多少なりとも何か行動を起こさねばという想いが湧いてくるのですが、行動に移すのは言うほど簡単ではないですね。できることから始めたいと思います。