大久野島 〜瀬戸の小島で観察会しよう!〜


 

【広島県竹原市 平成15年12月21日(日)】
 
 週末から降り続いた雪は、土曜日にはいったん止んだものの、その夜からまた静かに降り始めました。
 明日は竹原市の大久野島で12月定例観察会。今回のリーダーはyamanekoなので、いつにもまして天候が気になります。
 そして日曜日。広島I.Cから山陽道に乗って一路東へ。道路には雪はありませんが、周囲は白銀の世界。途中の西条盆地は墨絵のような景色でした。
 ところが河内I.Cで高速を降りたあたりから青空が広がってきて、竹原市街に入る頃には雪の「ゆ」の字もありません。やっぱり瀬戸内は温暖なんだなあ。

 忠海港(背後は黒滝山)

 午前10時、忠海港に集合。最寄り駅はJR呉線の忠海駅で、広島からだと2時間あまりかかります。週末の雪でマイカーをとりやめて電車でやってきた人もいたことでしょう。今日の参加者は43名。遠方で、さらに前日までの天候を考えると、もっと少ないかなと思っていたので内心ホッとしました。
 加藤代表の挨拶のあと今日のスケジュールをお知らせして、10時30分のフェリーで大野島へ向かいます。

 大久野島 2番桟橋

 乗っている時間はわずか12分。あっというまに到着です。昨日までがまるで嘘のような、すばらしい青空になりました。
 全員が上陸したところで、島の南側にある登山口に向かって出発です。
 大久野島は、広島県竹原市忠海町の南方約3qに浮かぶ、周囲4.3q、面積71fの小島です。島の南岸、北岸は潮流が激しく、最も早いときには6ノット(時速約10q)にも達し、時には小さな渦が巻くそうです。
 地形的には、大部分が丘陵性の山地で平坦地は少なく、最高点の標高は海抜約100m。地質の特徴は、黒雲母花崗岩を母岩としていて、これが風化して白砂を形成しているとのことです。でも、残念ながら青松はありません。
 気候は温暖で天災の少ない地域ですが、冬季には西風が強い日が多くなります。降水量は少なく、年間約1500o程度だそうです。

 ホルトノキ  果実

 11時過ぎ、登山口に到着です。ここからなだらかな坂道を頂上に向けて登っていきます。
 先頭を歩いてペースを保とうとするのですが、すでに列は伸びてしまい、最後尾は10分遅れとなっています。

 モミジバフウ

 晴天とはいえ日陰にはいるとひんやりとしています。
 登山道沿いにはピラカンサやヒサカキ、シャシャンボなど小さな実をたくさん付けた木々が連なっています。中低木ではクサギ、ネズ、ウラジロノキ、オオバヤシャブシ、フサアカシアなどが目につきました。
 大久野島は、「ネジキ−ワラビ群集」→「アカマツ−コバノミツバツツジ群集」→「シイ・タブノキ林の常緑広葉樹林」へと遷移していくと考えられています。
 この島は、山火事により昭和32年2月に北東部で山林の約4割が消失したのに続き、昭和56年4月に山頂部を含んだ西側斜面の山林の約6割が消失しています。島の約9割を占める山林には高木のアカマツ林が発達していましたが、山火事でほとんどなくなってしまっています。消失地域には、コバノミツバツツジ、ヒサカキ、ネジキ、草本ではススキ、ワラビ、コシダがまばらに残った程度だったそうです。

 ウラジロノキ

 12時に山頂に到着。先頭グループは10人程度です。さっそく昼食としました。
 下見のときから一番心配していたのは昼食時の天候でした。山頂で昼食時間を迎えることになるので、冬のこの時期でもあり雨でも降った日には辛い時間になるからです。でも幸いなことに晴天に恵まれました。しかもほとんど無風。瀬戸の小島を眺めながらのゆったりとした昼食になりました。
 第2グループは15分遅れ、しんがりのグループは30分遅れで頂上にやってきました。

頂上で昼食

 昼食後、360度の瀬戸内海を眺めながら、「瀬戸内海ってどんなとこ?」というプログラムを行いました。以下はその概要です。
 
【瀬戸内海の範囲は?】
 瀬戸内海の範囲を規定する法律は複数あって、それぞれで微妙に異なるのですが、領海法(施行令)では「南東の境界は紀伊日ノ御碕(和歌山県)−蒲生田岬灯台(徳島県)の直線、南西の境界は佐田岬灯台(愛媛県)−関崎灯台(大分県)の直線、北西の境界は竹ノ子島台場鼻(山口県)−若松洞海湾口防波堤灯台(福岡県)の直線」となっています。おおむね下の図のとおりです。

 この範囲の面積は約19,700平方q。ちょっとピンときませんが、四国4県とほぼ同じ広さになります。そう言われると、思ったより広くないような…。
 この瀬戸内海が満々と湛えている海水の量は、(えーと、電卓をたたいてみると)約6兆1千億リットル。…ますます分からない、どのくらいの量なのか。
 この海水をコンビニの棚に並んでいる500oリットルのペットボトルに詰めて積み重ねると、何と地球と太陽(月ではなく、太陽!)との間を7往復半もすることに。こりゃあ、ものすごい量だわ。
 
【島の数は?】
 瀬戸内海にはたくさんの島があります。でも、そもそも島って何?
 「自然に形成された陸地であって、水に囲まれ高潮時においても水面上にあるものをいう」 国連海洋法条約ではこう定義しています。日本の海図でもこれを「島」と表しています。(ちなみに、干潮時にだけ姿を現すものを「干出岩」、岩のてっぺんがCDL(基準水準面=最も水位が下がったときの水面)すれすれのものを「洗岩」、岩のてっぺんがCDLに達しないものを「暗岩」というそうです。)

 周囲100m以上の大きさの島は、瀬戸内海に727個あるそうです。これまた多いのか少ないのか。県別では広島県が最も多く、142個。次いで愛媛県の133個となります。最も少ないのは大分県で、たった3個だそうです。あらら。
 瀬戸内海は多島美で知られていますが、これらの島は瀬戸内海に均一に分布しているのではなく、特定の海域に偏っています。島が多くあるところを「瀬戸」、島が少ないところを「灘」と呼んでいます。「瀬戸」の部分は1千万年前くらいから地盤が安定していたところで、「灘」のところは盆地であったり地盤沈降が大きかったところにあたるのだそうです。
 

【海の深さは?】
 瀬戸内海は浅い海です。平均水深は31m。日本海の平均水深が約1500m、太平洋が約4300mといいますから、その浅さのほどが分かります。太平洋が肩まで浸かれる風呂だとすると、瀬戸内海の風呂はくるぶしまでも浸かれません。
 一般に、「灘」は浅く「瀬戸」は深くなっています。瀬戸は潮流が早く、その力で掘り込まれて深くなるのだそうです。瀬戸内海で最も深いところは佐多岬沖の速吸瀬戸で、水深465m。次が鳴門海峡の217mとなっています。でも、このように深い場所はところどころにあるだけで、瀬戸内海の98%は水深70m以下なのだそうです。ちなみに、水深はCDLからの深さで、「CDL−(マイナス)20m」というふうに表します。

 ここ大久野島の周辺海域では長い間海底の海砂採取が行われてきました。海上の採取船からショベルやポンプで海水ごと汲み上げ、不要な海水や泥は再び海中に投棄するのです。海底は岩と石ころが露出する荒れ地となって、砂地を好むイカナゴなどの小魚がいなくなり、それ追ってくる魚もいなくなりました。また、海中が泥でにごり光が遮られて、多くの藻場が失われてしまいました。藻場は海の生き物のゆりかごです。
 広島県で海砂採取が全面禁止になってから5年余り。先日、中国新聞の取材クルーが潜って調べたところ、ごく一部に砂泥の集積が見られ、また、藻場の回復もわずかに観測されたそうです。でも、もとの地形が回復するには数千年かかるとのこと。取り返しのつかないことをしたものです。そして、近隣他県では今も海砂を採取しつづけているのです。
 
【潮の干満は?】
 yamanekoの故郷は日本海に面し、海辺で遊んでいても潮の干満を感じたことはありませんでした。小学校3年生の時、広島の親戚に遊びに来て広島湾で潮干狩りをしたのですが、その干満の差にビックリした記憶があります。
 瀬戸内海は干満の差が大きいところで、その中でも特に広島、呉、岩国などはその差が大きいところだそうです。広島の最大干満差は約4.2m。太平洋側の東京で約2.3m、日本海側の境港にいたってはわずか30pほどです。ところが上には上がいるもので、カナダの大西洋側にあるファンディ湾というところでは、最大干満差が約13mもあるそうです。ここの船着き場はどういう構造になっているんでしょうか。

【潮の流れは?】
 瀬戸内海が満ち潮に向かうとき、四国の東にある紀伊水道を通って太平洋から潮が流れ込んできます。そして鳴門海峡や紀淡海峡を通って、播磨灘、備讃瀬戸と進み、瀬戸内海中央の燧灘に達します。一方、西の豊後水道を北上した潮流は、伊予灘、安芸灘、来島海峡と進んで、こちらも燧灘へやってきます。四国の東西から進入した潮流が燧灘でぶつかるのです。(豊後海峡から周防灘へ向かう流れもあります。)
 引き潮に向かうときには、この逆の流れが起こります。瀬戸になっているところでは、まるで激流のように潮が移動していくのを見ることができます。
 こんな現象を毎日2回繰り返しているのかと考えると、その膨大なエネルギーにあらためて驚かされます。
 
【海水温は?】
 広島市の気温は最高28.9℃(8月上旬)、最低4.6℃(2月上旬)でその差は24.3℃あります。一方、広島港の海水温は最高26.4℃(8月中旬)、最低10.1℃(2月中旬)でその差は16.3℃しかありません。(数値は、平成8年〜12年までの5カ年間の各月の上、中、下旬の平均値) また、最高、最低のピークも海水温が気温からそれぞれ半月程度遅れて記録しています。
 これらのことは、海水が大気に比べて温まりにくく冷めにくいということを示しています。そういえば、そんなことを理科の時間に習った記憶があります。

 

【昔の姿は?】
 今から2万年前の最も新しい氷期に北半球で大規模な氷床が発達したことにより海水面が低下し、もともと浅い海だった瀬戸内海は陸地となったと考えられています。そして、当時そこには大規模な流域をもった2つの川があったとも。
 一つは、旭川(岡山県)、吉井川(同)、淀川(大阪府)、紀ノ川(和歌山県)、吉野川(徳島県)などを集め、現在の紀伊水道沖で太平洋に注いだ「紀淡川」、もう一つは、高梁川(岡山県)、芦田川(広島県)、沼田川(同)、太田川(同)、錦川(山口県)、佐波川(同)などを集め、現在の豊後水道沖で太平洋に注いだ「豊予川」です。(紀淡川、豊予川は広島大学の研究グループ(広島大・院・国際協力)が命名した名前です。)
 これを裏付ける一つの研究結果があることを先日教えてもらいました。
 中四国と九州の一部の限定した地域に生育するキシツツジは、種子が水の流れによって運ばれることにより成育範囲を広げていく植物(水散布植物)だそうです。このキシツツジ、32集団の遺伝子構造を系統解析した結果、現在では遠く離れた別々の川が、太古の同じ大河の流域であったことを物語るように、それぞれの川辺に咲くキシツツジ同士近縁関係があることが分かったそうです。すなわち、キシツツジには「紀淡川」系のグループと「豊予川」系グループとがあるのです。(岡山県北部には、2つの大河が河川争奪を繰り返した結果、それぞれの系統が混ざり合った独立したグループがあるそうです。)
 当時の瀬戸内海の様子はどのようなものだったでしょうか。
 現在海になっているところには谷や平野が広がり、湖などもあったでしょう。今の島は、当時は高い山の頂の部分だったと思います。現在は高山植物とされている木や草花が茂り、人々は獲物を求めて歩いて瀬戸内海を往き来していたはずです。
 うーん、なんとも浪漫を感じる光景です。
 
【瀬戸内海の語源は?】
 瀬戸内海の語源について触れている資料は、とうとう見つけることができませんでした。ところが、観察会事務局の六重部さんがちゃんと調べておいてくれていました。
 元来「瀬戸」には「陸に挟まれて海が狭くなった部分」という意味があるそうです。「外洋(太平洋)から瀬戸(鳴門海峡や豊予海峡)によって区切られた内海(うちうみ)」ということで「瀬戸内海」になったのではないかということです。

 
 といったようなことをお話ししました。
 実際に瀬戸内海を眺めながらなので、より楽しく話ができました。

 北の突端にある浜

 午後1時過ぎ、今度は島の北側を目指して下って行きます。こちら側の斜面は午後に陽が当たるので、今日は常に陽を浴びながらの観察会になります。
 浜に到着したら、今度はみんなで浜辺の植生観察です。

 島の南側まで戻ってきました。ここにある環境省のビジターセンターのレクチャールームをお借りして、大久野島の近世の歴史について話を聞いてもらうことにしました。
 大久野島は、瀬戸内海の中央に位置し交通の要衝にあることから、明治30年代には愛媛県の来島海峡とともにバルチック艦隊を迎え撃つための砲台が整備されました。(実戦では使われていません。) その後は、4、5軒の農家が耕作するのどかな島だったということですが、昭和に入ってまもなく、秘密裏に陸軍の毒ガス工場が建設され、大量の毒ガス製造が始まりす。そして終戦とともに毒ガス工場は撤去されました。
 お話しをしてくださるのは、忠海町在住の村上初一氏。氏は大久野島の元毒ガス資料館館長で、自らも毒ガス工場で作業に従事した経験をお持ちの方です。

 村上初一氏のお話

 毒ガス工場があった当時、そこで働く人々は皆、毎日本土から船で通っていました。しかし、その島の中でのことは、本土では何一つ話してはならなかったそうです。なにしろ大久野島自体、当時の地図からも消されていました。防護装備も不十分で多くの方が病に倒れたと聞きます。そして、戦争が終わってからも長く後遺症に苦しまれているということです。
 昭和25年、大久野島は瀬戸内海国立公園に編入され、昭和37年には国民休暇村がオープンしました。今ではレジャーの島として、年間17万人の観光客が訪れます。
 今日、我々もこの島で楽しく観察会をさせてもらったのですが、やはりこの島に刻まれた過酷な歴史から目を逸らしたままでこの島を離れるわけにはいかないでしょう。
 
 時計の針は3時半をまわりました。
 明日は冬至。すでに陽は西に傾き、少しひんやりとしてきました。
 閉会の挨拶も早々に、3時43分発のフェリーで忠海に向かいます。

 怪我人もなく、無事終えることができ、フェリーの中でようやくホッと息をつくことができました。
 今回の観察会は多くの仲間に支えられてできたものです。企画段階からのアドバイスに始まり、講師の確保・連絡、現地下見、各種資料提供などなど。我ながらよい仲間をもったものだとしみじみ思います。
 
 さあ、今年もあとわずか。
 やり残したことがないように、まだまだ遊ばなくては。