小平の里 〜山里の冬の終わり〜


 

【群馬県 みどり市 平成19年2月4日(日)】
 
 昨日は節分(今年の恵方は北北西だったとか)。そして今日は立春です。暦の上ではもう春。ですが、現実の季節の方も本当にこのまま春になってしまうのでしょうか。
 ネットでローカルニュースを見ていたら、もうあちこちからフクジュソウが開花したという知らせが届いていました。それではということで、さっそく見に行くことに。やっぱりすぐ近くまで春が来ているようです。
 
                        
 
 今日は天気も良さそうなので、ちょっと遠出です。場所は群馬県西部のみどり市。約1年前に笠懸町、大間々町、東村の3団体が合併してできた新しい市です。そこの旧大間々町にある「小平(おだいら)の里」というところ。地理的には赤城山の南東に当たり、北関東の山々と関東平野との境目になります。
 
 9時30分、新ドリーム号発進。新目白通りから関越道に入り一路北西へ。雲一つない青空。道路も空いています。埼玉県を斜めに縦断して群馬県に入ったところにある高崎JCTから北関東自動車道へ。終点の伊勢崎ICから一般道へ下りていきます。

 赤城山

 高速を下りると北の方に赤城山が望めます。そう、ここは上州、「かかあ天下とからっ風」の国です。今日は朝からビュービューと強風が吹き付けていますが、これは気圧配置の関係で今日は全国的に風が強くなっているようです。
 今から30数年前(確か札幌オリンピックの頃)、一世を風靡したTVドラマ「木枯らし紋次郎」の出生の地として設定されているのがこの辺り。当時新人だった中村敦夫が扮する木枯らし紋次郎のニヒルな生き様が、見る者を強烈に引きつけたことを覚えています。なによりその殺陣(たて)は他の時代劇の舞踊のようなそれとは異なり、あがき転がり、追い詰められたら木ぎれなども手当たり次第に投げつけるような泥臭いもので、それゆえにリアリティー満点でした。一話完結の連続ドラマでしたが、勧善懲悪でスッキリと見終わることはなく、毎回むなしく何かやりきれないものを残してエンディングを迎えていたように思います。埃の舞う峠道を一人歩いて去っていく紋次郎をカメラは遠景でとらえ、かぶせるようにナレーションが(芥川隆行だったか)が流れるのです。「木枯し紋次郎、 上州新田郡(にったごおり)三日月村の貧しい農家に生まれたという。十歳のとき故郷(くに)を捨て、その後一家は離散したと伝えられる。天涯孤独な紋次郎が何故無宿渡世の世界に入ったかは、定かでない…」。今も記憶に残る名ナレーションでした。その後、笹沢佐保の原作も何冊か読んだことを覚えています。
 おっと、つい熱く語ってしまいましたが、まあそんなこんなで車は旧大間々町の中心部を通り過ぎ、渡良瀬川を渡って山間(やまあい)に入っていきます。

 小平の里

 11時30分、「小平の里」に到着。ここは渡良瀬川の支流、小平川の中程にある小さなレクリエーション施設で、キャンプ場や入浴施設、食堂などが整備されています。その奥には湿性植物園や鍾乳洞など自然観察ができるような場所もあるのです。それにしてもネットの情報提供力ってすごいですね。検索でヒットしなければおそらく一生訪れることがなかったであろう場所にこうやって立っているのですから。
 さて、まず「狸穴(まみあな)亭」という食堂で昼食です。手打ちのうどんはコシがあって美味でした。(ただ、カレーうどんの汁はひょっとしてルーそのままなのでは?出汁の風味があまり感じられなかったような…。)

 小平鍾乳洞

 腹一杯になったところで小平鍾乳洞に入ってみることに。地下倉庫に向かう通路のような入り口を入るとその先に鍾乳洞が延びていました。この鍾乳洞は、明治7年に石灰岩採掘の際に発見され、当時は珍しいものとして入場料をとって一般公開していたのだそうです。その後10年くらいで入り口が埋まってしまい長い間どこにあるのか分からなくなっていたそうですが、昭和59年に古文書をたよりに発掘したのだそうです。解説板によると、長さは93mと短いものの、重力に反して曲がっている鍾乳石や箱状に成長した鍾乳石など貴重なものもあるようです。

 ロウバイ

 10分ほどで外界に出て、今度は湿性植物園を歩きます。お目当てのフクジュソウは咲いているでしょうか。

 湿性植物園

 湿性植物園は小平川から派生する小さな谷の地形を活かして造られていました。谷を上り振り返ると北側に連なる山並みをかいま見ることができます。あの向こうには渡良瀬川が刻んだ谷があり、その際上流部には今は閉山となった足尾銅山があります。そこはもう県境を越えた栃木県になります。

 フクジュソウの谷

 おお、いたいた。湿性植物園の最奥あたりに柵に囲まれたエリアがあり、その周辺部に鮮やかな黄色の花が咲いていました。日陰になってひんやりとした空気に包まれているのにきれいに開いています。

 フクジュソウ

 枯れ葉の中にあるアクリルカラーの黄色。金属光沢といってもよいかもしれません。この花冠の形、パラボラアンテナに似ていませんか? 事実この形は太陽光線を花冠の中心部分に集める役割を果たしているのだそうです。その結果、中心部分は他より1〜2度気温が高くなり、早春の低温の中でもこの花にとまった昆虫を暖めその活動を活発にさせるのだそうです。
 雪を割って咲いているイメージが強いですが、yamanekoは実際にそういうシチュエーションで見たことはありません。ちなみに正月用に鉢植えにされているのは促成栽培されたもので、本来は地中深く伸びている根を鉢に入るように切ってあるので、そのままでは育たないそうです。
 今日はこの花を見にはるばるやってきたので、きれいに咲いていて嬉しかったです。これからこの谷の斜面にたくさん花を見せてくれるのでしょう。花が終わると初夏までに地上部は枯れてしまい、また翌年の春をじっと地中で待つのです。それまでの間に地上部の環境が変化するうようなことがないよう祈りたいと思います。

 冬の終わり

 谷の奥から下りてきて入り口近くの広場にやってきました。正面の山肌はこれから花粉を飛ばそうと準備を進めているスギたちでまだら模様になっていました。街を遠く離れた山里でもこうやって冬が終わろうとしています。
 毎年この時期の景色は何かものを思わせるような、そんな気がします。四季というサイクル(≒人々の生活のサイクル)の一つの区切りが近づいているからでしょうか。

 渡良瀬遊水池

 帰りに渡良瀬川沿いに国道50号を下り、渡良瀬遊水池に行ってみました。ここに来るのはかれこれ15年ぶりくらいになります。
 渡良瀬遊水池は、足尾銅山の鉱毒を沈殿させ無害化することを目的に渡良瀬川の下流部に造られた遊水池で、渡良瀬川、思川、巴波川の3つの川が合流する地点にあります。遊水池造成の表向きの目的は治水ですが、鉱毒対策目的であることは明白なのだそうです。明治38年に着工され竣工したのはなんと平成元年。昭和48年の閉山後も10数年間銅の精錬は行われ、現在でも遊水池の土壌には大量の鉱毒物質が含まれているそうです。行政区画上は栃木、群馬、茨城、埼玉の4県境にまたがっていますが、その敷地のほとんどは栃木県内にあります。写真でも分かるとおりものすごくだだっ広いところです。
 遊水池は、当初埼玉県側に造成される予定だったそうですが、明治政府は、当時鉱毒反対運動の中心地だった谷中村全域を買収して廃村にし、その地に遊水池を造成することにより、運動の弱体化を図ったといわれています。村に残れば犯罪者となるといわれ、多くの村民が村外に出たそうですが、その行き先は北海道常呂町のサロマベツ原野への移住だったとのことです。
 現在の渡良瀬遊水池は、貯水池部分以外はほぼ全域が葦原になっていて、希少な動植物が多く生息しているそうです。
 当時の大規模な銅の生産が日本の近代化に大きく貢献したことは事実でしょう。でも、一度破壊してしまうと回復するのに気の遠くなるくらいの時間が必要となる、いや、どんなに時間をかけてももう二度と回復することのないものもある、そんな脆い自然の中でしか我々は生きていくことができないということを忘れてはならないと思うのです。そして、自然が死ぬときは我々も運命をともにするということも。この不自然な遊水池は未来の人々への警鐘を兼ねた遺産といえるのではないでしょうか。
 遊水池を見渡すことができる展望台の上でそんなことを考えていました。
 
 今日は最後まで風の強い一日でした。帰りは館林ICから東北道を南下しましたが、渋滞もなく1時間ほどで自宅に到着しました。いつもこうだといいのですが。