銀山街道 〜世界遺産候補地を歩く〜


 

【島根県大田市 平成18年3月11日(土)】
 
 やってきました花粉のシーズン。(花粉は年中飛んでいるので、正確にはスギ花粉のシーズンです。) ニュースなどでは今年の飛散量は少ないなどと報じられていましたが、なんのことはない、発症してしまえば同じこと。鼻づまりがひどくて慢性的な睡眠不足に陥っています。
 と、そんな状況にもかかわらず、またまた野山に出かけてみました。今回のフィールドは世界遺産の暫定リストに登録された石見銀山。銀鉱山があった大田市大森町から銀の積出し港だった同市温泉津町(ゆのつちょう)までの約13q、当時の荷夫が銀を運んだルートをトレッキングしようという企画です。(石見銀山についてはこちらのサイト

 温泉津港

 集合場所の温泉津港に集まったのはyamanekoを含めて10人。いつもの野山歩きのメンバーです。ここに車を数台残しておいて、他の車にみんなが分乗してスタート地点に向かいます。国道9号線を海沿いに約10qほど北上し、同市仁摩町で山手に折れます。そこから約7qほど分け入ると石見銀山の里大森町に到着です。大田市はyamanekoの故郷。子供の頃は「大森銀山」と呼んでいました。

 石見銀山公園

 午前10時、石見銀山公園に到着。ここに車を置いて歩き始めます。ここからは間歩((まぶ)=坑道)の遺跡が点在する谷筋の道をさかのぼり、本日の最高地点である降路坂(峠)を目指します。峠を越えたら、最後に温泉津港の手前にある小山を越えるのを除けば、基本的に下りの多いルートになります。


Kashmir 3D

 各自ストレッチをして、いざ出発、と思ったらいきなり寄り道です。近所に「手作り胡麻豆腐」という看板を見つけ、今日の昼食にとみんなで買い付けに行ってしまいました。

 街道の町並み

 さて、あらためてスタート。ここからは「銀山柵内」と呼ばれる地区。銀鉱山遺跡の中心部に当たり、江戸時代の初めに柵で厳重に囲まれていた地域です。地域といってもそのほとんどは山地で、いわば山々ごと柵で囲んだ形になるのです。(もちろん今は囲まれてはいません。) 現在でもこの地域内には往時を偲ばせる遺構がたくさん残っています。

 春です

 道ばたには春の訪れを感じさせてくれるものがあちこちに見受けられました。この土筆もそのうちの一つ。子供の頃、季節の味としてこの土筆のおひたし(佃煮だったか?)が食卓に上ることがありましたが、なんとも美味くなかったことを覚えています。きっと大人の味だったのでしょう。まあ見るからに栄養価は低そうですね。

 あれは何?

 舗装こそしてありますが、あたりの雰囲気はすっかり「野辺の道」といった感じになってきました。でも完全に田舎道になったわけでもなく、沿道にぽつりぽつりと洒落た喫茶店なども現れたりします。
 それにしても穏やかな天気です。数日前まではぐずついた天気が続いていたので今日は雨の中の野山歩きを覚悟していたのですが、これまでの善行が幸いしたのか、いかにも早春らしい日和となりました。

 福神山間歩

 左手に銀山川を見ながら歩いていくと、反対の山側ののり面にぽっかりと穴が空いていました。石碑には「福神山間歩」と刻んであります。解説板には次のような記載がありました。
 「福神山間歩は江戸時代中期の一時期、代官所直営の間歩(御直山)として操業されたが、その前後は自分山(個人所有の坑道)だった。銀山川の下を通って仙ノ山へ掘り進んでいる。」
 間歩の入口は右手の山側にあるのですが、そこから地下に掘り進んで、入口とは反対側にある仙ノ山に向かって掘られているのです。きっと鉱脈をたどって掘り進んだ結果なのでしょう。

 龍源寺間歩

 今度は左手、銀山川を渡った先に龍源寺間歩がありました。現在一般公開されているのはこの龍源寺間歩だけです。とはいえ、見学できるのはほんの一部分で、その奥に縦横に掘られている坑道は見ることができないのだそうです。今日は先を急ぐので中には入りませんでした。

 山道へ

 普通、観光客が訪れるのは龍源寺間歩まで。そこから先はすぐに舗装がとぎれ、銀山街道は山道へと変わるのです。そこに「坂根口番所跡」との解説板がありました。
 「古図によると、江戸時代、石見銀山の周囲には柵を廻らし、その柵には街道に通じる10か所の出入口に番所を置いていました。番所では、人の出入りを監視するとともに、商人が銀山に運び込む荷物に課税し、徴収していました。10か所の番所の位置は時代によって変わりますが、その一つであるこの坂根口番所は、銀山の西側、港のある温泉津と銀山とを結ぶ主要街道への出入口の番所として江戸時代を通じて設置されていたようです。番所の建物は現存しませんが、隣接する現在の民家の場所にあったと伝えられています。」
 たしかに舗装がとぎれる直前に最奥の民家が1軒ありました。

 谷を上る

 山道を登り、川を渡って、さらにまた山道を登ります。徐々に傾斜がきつくなってきました。それでもいつもながら「超」がつくほどスローペースなので、息が切れるようなことはありませんが。

 ユリワサビ

 山肌の日陰にユリワサビの白い花弁がほわっと浮かび上がっていました。この花を揉むとワサビの香気がするのだとか。もちろん同じアブラナ科でワサビと近い種です。

 つづら折れの急坂

 道がさらに急になってきました。道幅も狭く、脇を流れる川の流れも細くなってきています。いよいよ谷もどん詰まりに近づいているのです。
 足を止めて息を整え静かに耳を澄ますとき、時代をさかのぼりこの道を銀を担いで行き来した人々の荒い息づかいがすぐそこに聞こえてくるようです。

 柑子谷

 谷のどん詰まりから道は山肌にとりつき、何回かのジグザグを繰り返します。しばらく行くと1箇所、北方向の展望が開けているところがありました。地図を見ると目の前に刻まれた谷は「柑子谷」とあります。銀山街道の谷から1本北側にある谷筋です。ちなみに柑子とは、在来ミカンの一種で、耐寒性が強く、山陰・北陸・奥羽地方にも家庭用として栽培されているミカンのことだそうです。

 降路坂(峠)

 12時15分、ようやく峠に到着しました。ここまでで全行程の約3分の1を歩いたことになります。ここは降路坂といい、坂道の名であるとともにこの峠を指す名でもあるようです。ともあれここで昼食です。胡麻豆腐です。腹ぺこぺこなんです。
 ここまでは気がつきませんでしたが、この峠には温泉津側から銀山街道に沿って吹き上げてきた強い風が一気に吹き抜けていました。この風に吹かれているとすぐに身体が冷えるので、みんな風の影に回って弁当を広げていました。
 胡麻豆腐、期待に背かず美味でした。

 ヒヨドリジョウゴ

 食後、Oさんが抹茶をたててくれました。野山でいただく抹茶の美味いこと。これこそ野点(のだて)です。早春の長閑な日差しを浴びてお茶を飲む。なんと贅沢なひとときでしょうか。

 坂を下る

 1時10分、再びリュックを背負って出発です。ここからは長い下りになります。せっかく治した左膝をまた痛めてしまわないように気をつけながら一歩一歩下っていきます。

 ミヤコアオイ

 近畿地方の日本海側から島根県にかけて分布するミヤコアオイです。花は?と探すと地面にへばりつくようにして2個咲いていました。何者かに踏みつけられたのではなく、これが普通の姿なのです。萼筒の口の部分がぎゅっとくびれているのが特徴です。

 ミツマタ

 坂の傾斜が緩くなり、だいぶ里に近づいてきました。このミツマタがあるということも人里が近いというしるしです。ミツマタはご存じ和紙の原料。昔から広く栽培されてきた歴史があります。
 この花はまだ3分咲きといったところ。満開になると豪奢なシャンデリアのようになりますよ。

 アオキ

 今日は歩き始めからアオキがずっと傍らにありました。どの株もツヤツヤとした赤い実をたわわに実らせています。この木が間違いなく今日の主役です。

 西田集落

 やがて西田という集落が見えてきました。時計の針は午後2時を指しています。ここは銀山と興亡を共にした宿場町で、銀山街道を往来する人の多くはここで草鞋の紐を締め直して歩を進めたということです。
 時は現代、道は再び舗装道路になりました。我々一行はごく緩やかな下りの道をのんびりと歩いていきます。

 ネコノメソウ

 林の縁にネコノメソウを見つけました。やや湿ったところを好む植物です。暗い色合いの中に浮かびたつような、まるで自らが発光しているかのような鮮やかな色。この花も春の花です。

 矢滝城山

 振り返ると西田集落の向こうに矢滝城山(638m)がのしかかるように聳えていました。今日はあの山の北麓(左側)の峠を越えて来たのです。
 1528年、周防の大内氏が銀山の開発を始めたとき、銀山の守りとしてこの山の頂に築いたのが矢滝城です。以来、銀山の採掘権をめぐって繰り広げられた数々の戦にその場を提供してきた山でもあります。
 あの山並みの向こうには、中世、世界に流通していた銀の大半を産出した銀の里があったのです。

 再び山道へ

 集落を過ぎ、湯里川に沿って延びる道を歩いていくと、左手に温泉津方面へと続く山道がありました。この辺りで全行程の約3分の2を歩いたことになります。
 ここでしばらく休憩した後、午後3時、また歩き始めます。やや疲労を感じ始めてきましたが、なんの我々の背中にはずっしりと重たい銀ではなく、食べ終わった弁当殻が入ったリュックが背負われているのみ。まだまだ疲れたなんて言っていられません。

 ミヤマカタバミ

 スギ林の縁などでよく見かけるミヤマカタバミです。あまり直射日光は好まないようですが、それでも寒かったり陽が陰ったりしているときれいに花を開いてくれません。写真のものは最もよく開いている方でした。まだチョウやハナバチのいないこの季節にいったい誰が受粉を手伝ってくれるのでしょうか。

 石畳の道

 道は里山の中腹を等高線に沿うようにして少しずつ上っていきます。ところどころ石畳の跡が残っていました。荷車のようなものが頻繁に行き来していたのかもしれません。
 1526年の銀山「発見」以降その開発の初期には、銀山街道は温泉津から5qほど北上したところにある「鞆ヶ浦」という小さな港に向かって延びていました。その後、毛利氏が石見を支配した1560年代から1600年頃にかけて、新たに坂根口−降路坂−西田−沖泊(温泉津)というルートが主流となったのだそうです。沖泊は天然の良港で、大量の物資の輸送にはこちらの方が都合が良かったのでしょう。1600年代初頭には銀山から中国山地を越え、三次(広島県)を経て尾道に向かうルートが開発されましたが、沖泊ルートは引き続き幹線道として重要な役割を果たしたということです。

 清水集落

 やがて清水という小さな集落の裏手にひょっこりと出てきました。ここは小高い丘のような山の中腹にあたり、この山を越えると後は温泉津の町に向かって下っていくのみです。ちなみにこの山の下には国道9号線と山陰本線とが通っています。

 タチツボスミレ

 タチツボスミレご一行様に出会いました。野山で最もポピュラーなスミレと言ってよいでしょう。今は小柄でかわいいですが、花の時期が終わると葉柄がぐんぐん伸び、長さ30センチくらいにもなるのです。なので夏場に出会うとまったく別の植物に見えます。

 登り窯

 温泉津の温泉街に入る手前に登り窯がありました。自然の斜面を利用して建てられているので、こっちがまっすぐ立って見ていても何か身体が斜めに傾いてしまっているような錯覚を覚えます。実物は初めて見ました。堂々とした造りです。ちなみにこのときは窯に火は入っていませんでした。

 温泉街

 さあ、長かったトレッキングもそろそろ終わりに近づいてきました。道は温泉街の中を通っています。温泉津温泉は昔ながらの佇まいを今も残していて、温泉客を心地よく迎え入れつつも地元の生活にも密着している、なんともしっとりとした雰囲気なのです。夕暮れも迫り温泉宿の軒下にも灯りがともり始めています。浴衣姿の女性がそぞろ歩いていたりしている傍らで、地元のご隠居がタオルを手に共同浴場の暖簾をくぐっている。これぞ正しい日本の温泉、といった風情です。

 港の駐車場

 そしてとうとう港に出ました。時計を見るとちょうど午後5時です。休憩時間を入れて7時間のトレッキングでした。
 石見銀山から運ばれてきた銀はここで船に積み替えられ、都に、江戸に、そして世界に運び出されていったのです。
 当時ヨーロッパ諸国で広く流通した銀に「ソーマ(soma)銀」と呼ばれるものがあったと記録されています。これは石見銀山で産出された銀のことで、銀山が佐摩村(現大田市大森町佐摩)にあったことに由来しているのだそうです。山陰の小さな集落の名前が往時世界を巡っていた。よく考えるとこれって凄いことですよね。ここと世界が直接つながっていたということですから。中世の世界史に与えた影響の大きさ、その歴史の重みこそが世界遺産たるにふさわしいと評価されるのであって、こういった評価を意識しながら国内外からのお客さんをお迎えすることが、石見銀山をさらに輝かせる重要なポイントになってくるのだと思います。(まあ、見た目はすっごく地味だということなんですが。)


 温泉津に停めておいた車に分乗して、再び大森町の石見銀山公園へ向かい、みんなの車がそろったところで解散となりました。
 年度末の忙しいときにつき合ってくれたみなさん、ありがとうございました。
 

 
祝 世界遺産登録(H19.6.27)
 
 おめでとうございます。ちょっとハラハラしましたが、本当に良かったです。
 これからたくさんの観光客が訪れると思います。中には(ていうか、ほとんどが)風光明媚な景色や、温泉や、グルメを求めて、またそのようなコピーのツアーでやってきて、「なんだ?なにを見物すればいいんだ?」なんて言う人もいるかもしれません。でも、そんな人他達が、帰り際には「なるほど、ここはただの観光地とは違う」と思ってくれるような、ここで見聞きしたことを戻って人に説明したいという欲求にかられるような、そんな「観光地」になってほしいと思います。
 これから世界に注目される、世界の財産たるにふさわしい場所として発展していってほしいです。応援しています。 がんばれ石見銀山!